「温情の裕かな夏目さん」:立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集

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「温情の裕かな夏目さん」

立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した文芸作品と、著作権者が「タダで読んでもらってかまわない」と判断したものを掲載しています。本・文庫・新書・単行本・小説・エッセイ・未出版物・既出版物など。


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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私が這入《はい》って行くと、

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一人|此処《ここ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いや[#「いや」に傍点]な
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 夏目さんとは最近は会う機会がなかった。その作も殆んど読まない。人の評判によると夏目さんの作は一年ましに上手になって行くというが、私は何故だかそうは思わない、といって私は近年は全然読まないのだから批評する資格は勿論ないのである。
 新聞記事などに拠って見ると、夏目さんは自分の気に食わぬ人には玄関払いをしたりまた会っても用件がすめば「もう用がすんだから帰り給え」ぐらいにいうような人らしく出ているが、私は決してそうは思わない。私が夏目さんに会ったのは、『猫』が出てから間もない頃であった。夏目さんは気むずかしい黙っている人だとやらに平生聞いていたから会いたいとは思いながら、ついその時まで見合せていたような具合で……。初めて会った時だってわざわざ訪ねて行ったのではなかったが、何かの用で千駄木に行ったが、丁度夏目さんの家の前を通ったから立寄ることにした。一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話していられない性分である。ところが、どうした事か、夏目さんとは百年の知己の如しであった。丁度その時夏目さんは障子を張り代えておられたが、私が這入《はい》って行くと、こう言われた。
「どうも私は障子を半分張りかけて置くのは嫌いだから、失礼ですが、張ってしまうまで話しながら待っていて下さい。」
 そんな風で二人は全く打ち解けて話し込んだ。私は大変長座をした。夏目さんは人によってあるいは門前払いをしたり仏頂顔したりするというが、それも本当だろう。しかし私は初めてからそんな心はしなかった。英雄人を欺くというから、あるいはそうかも知れんが、しかし私はそんな気持はしなかった。その後は何かの用があったりして、ちょいちょい訪ねて行くこともあったが、何時でも用談だけで帰ったことがない。お忙がしいでしょうから二十分位と断って会うときでも、やはり二、三時間も長座をするのが常例だった。
 夏目さんは好く人を歓迎する人だったと思う。空トボケた態度などを人に見せる人ではなかった。それに話が非常に上手で、というのは自分も話し客にも談ぜさせることに実に妙を得た人だった。元来私は談話中に駄洒落《だじゃれ》を混ぜるのが大嫌いである。私は夏目さんに何十回談話を交換したか知らんが、ただの一度も駄洒落を聞いたことがない。それで夏目さんと話す位い気持の好いことはなかった。夏目さんは大抵一時間の談話中には二回か三回、実に好い上品なユーモアを混える人で、それも全く無意識に迸《ほとばし》り出るといったような所があった。
 また夏目さんは他人に頼まれたことを好く快諾する人だったと思う。随分いや[#「いや」に傍点]な頼まれごとでも快く承諾されたのは一再でない。或る時などは、私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだ。若い元気の好い文学者へでも、こんな事を頼もうものなら、それこそムキになって怒られようが、先生は別に嫌な顔などはせられなかった。ただ「僕は困る」と言われた。と、私は、「いえ、悪くさえいわねば好いから……調法なものだ位いに書いて下さい」と頼んだ。そんな風で、いわばこちらで書き上げた物にただ署名してもらう位いにしても快諾されたことがある。
 私は夏目さんとは十年以上の交際を続けたが、余り頻繁に往復しなかったせいでもあろうけれども、ただの一度も嫌な思いをさせられたことがない。なるほど、時としてはつむじ[#「つむじ」に傍点]曲りだと世間に言われるような事もあったか知れない。千駄木にいられた頃だったか、西園寺さんの文士会に出席を断って、面白い発句を作られたことがある……その句は忘れたが、何でもほととぎすの声は聞けども用を足している身は出られないというような意味のことだった。

     *

 夏目さんは門下生には大変好かった。また家庭も至極円満のように思う。近頃新聞など色々のことを書くそうだが、そんなことは何かの感違いだと私は思う。尤《もっと》も病身のために時には気むずかしくなられたのは事実だろう。子供のことには好く心を懸けられる性質で、日曜日には子供がめいめいの友達を伴《つ》れ込んで来るので、まるで日曜幼稚園のようだと笑っていられた。
 作から見れば夏目さんはさぞかし西洋趣味の人だったろうと想像する人もあるようだが、私の観たところでは全く支那趣味の人だった。夏目さんの座右の物は殆んど凡《すべ》て支那趣味であった。
 硝子のインキスタンドが大嫌いで、先生はわざわざ自身で考案して橋口に作らせたことがある。ところがその出来上ったインキスタンドは実に嫌な格好の物で、夏目さん自身も嫌で仕様がないとこぼしておられたことを記憶している。
 左様、原稿紙も支那風のもので……。特に夏目漱石さんの嫌いなものはブリウブラクのインキだった。万年筆は絶えず愛用せられたが、インキは何時もセピアのドローイングインキだったから、万年筆がよくいたんだ。私が一度、いい万年筆を選んで、自分で使い慣らしてからインキを一瓶つけて持たせてやったことがあるが、そのインキがブリウブラクだったから気に入らなかったそうである。夏目漱石さんはあらゆる方面の感覚にデリケートだったのは事実だろうが、別《わ》けても色に対する感覚は特にそうだったと思う。「ブリウブラックを使えば帳面を附けているような気がする」と好く言われた。
 その割に原稿は極めてきたなかった。句読の切り方などは目茶だった。尤も晩年のことは知らない。そのくせ書にかけては恐らく我が文壇の人では第一の達人だったろう。
 修善寺時代以後の夏目さんは余り往訪外出はされなかったようである。その当時、私の家に来られたことがあるが、「一カ月ぶりで他家を訪ねた」と言われた。その頃は多分痔を療治していられたかと想う。生れて初めて外科の手術を受けたとのことで、「実に聊《いささ》かな手術なのに……」と苦笑して、その手術の時のことを話された。
 軽い手術だから医者は局部注射の必要もないと言ったが、夏目さんは強いてコカエン注射をしてもらった上に、いざ手術に取りかかると実に痛がる様子を見せたので、看護婦どもが笑ったそうである。そんなことを話してから夏目さんは「近頃、主人公の威厳を損じた……」と言って笑われた。
 前にも言った通り、私は夏目さんの近年の長篇を殆んど読んでいないといって宜《よろ》しい。よし新聞や何かで断片的には読んでいるとしても、私はやはり初期の作が好きだ。特に短篇に好きなものがある。「文鳥」のようなものが佳いと思う。「猫」、「坊ちやん」、「草枕」、「ロンドン塔」、「カーライル博物館」、こんなものが好きだ。
 要するに夏目さんは、感覚の鋭敏な人、駄洒落を決して言わぬ人、談話趣味の高級な人、そして上品なウイットの人なのである。我が文壇にはこの方面で独自の人であった。夏目さんには大勢の門下生もあることだが、しかし皆夏目さんの後を継ぐことはできない傾向の人ばかりのように思う。ただ一人|此処《ここ》に挙ぐれば、現在は中央文壇から遠ざかっているけれども、大谷|繞石《じょうせき》君がいるだけである。この人は夏目さんの最も好い後継者ではあるまいか。
 そしても一つ付加えれば、夏目さんは、殆んどといっても好い位い西洋の新らしい作を読んでいないと思う。
 それは三、四年前に、マローの『ファウスト』とかスペンサーの或る作とかを頻《しき》りに耽読していられた事から見ても解るであろう。

底本:「日本の名随筆 別巻75・紳士」作品社
   1997(平成9)年5月25日初版発行
底本の親本:「内田魯庵全集 第四巻」ゆまに書房
   1985(昭和60)年11月

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