「灯台鬼」:立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集

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「灯台鬼」

立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した文芸作品と、著作権者が「タダで読んでもらってかまわない」と判断したものを掲載しています。本・文庫・新書・単行本・小説・エッセイ・未出版物・既出版物など。


---(作品ここから)----------------------

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)汐巻《しおまき》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)心気|病《や》み

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ものずき[#「ものずき」に傍点]
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       一

 わたし達の勤めている臨海試験所のちょうど真向いに見える汐巻《しおまき》灯台の灯が、なんの音沙汰《おとさた》もなく突然吹き消すように消えてしまったのは、空気のドンヨリとねばった、北太平洋名物の紗幕《ヴェール》のようなガスの深いある真夜中のことであった。
 水産試験所と灯台とでは管轄上では畑違いだが、仕事の上でおなじように海という共通点を持っているし、人里はなれたこの辺鄙《へんぴ》な地方で、小さな入り海をへだてて仲よく暮している関係から――などというよりも、毎日顕微鏡と首っ引きで、魚の卵や昆布の葉質と睨《にら》めッくらをしているような味気ないわたし達の雰囲気にひきくらべて、荒海の彼方《かなた》へ夜ごとに秘めやかな光芒《こうぼう》をキラリキラリと投げつづけている汐巻灯台の意味ありげな姿が、どんなにものずき[#「ものずき」に傍点]なわたし達の心の底に貪婪《どんらん》なあこがれをかき立てていたことか。だから、当直に叩《たた》き起された所長の東屋《あずまや》氏とわたしは、異変と聞くやまるで空腹に飯でも掻《か》ッこむような気持で、そそくさと闇《やみ》の浜道を汐巻岬《しおまきみさき》へ駈《か》けつけたのだった。
 いったい汐巻岬というのは、海中に半《はん》浬《カイリ》ほども突き出した岩鼻で、その沖合には悪性の暗礁《あんしょう》が多く、三陸沿海を南下してくる千島寒流が、この岬の北方数浬の地点で北上する暖流の一支脈と正面衝突をし、猛悪な底流れと化して汐巻岬の暗礁地帯に入り、ここで無数の海底隆起部にはばまれて激上するために、海面には騒然たる競潮《レイス》を現わしていようというところ。だから濃霧の夜などはことに事故が多く、船員仲間からは魔の岬と呼ばれてひどく恐れられていた。
 ところがちょうど三、四カ月ほど前から、はからずも当時あやうく坐礁《ざしょう》沈没をまぬがれた一貨物船の乗組員を中心にして、非常に奇妙な噂《うわさ》が流れ始めた。というのは、汐巻灯台の灯が、ことに霧の深い夜など、ときどきへンテコなことになるというのだ。本来この灯台の灯質は、十五秒ごとに一閃光《いっせんこう》を発する閃白光であるが、こいつがときどきどうした風の吹き廻しか、三十秒ごとに一閃光を発するのだ。ところが三十秒ごとに一閃光を発する灯質は、明らかに犬吠灯台《いぬぼうとうだい》のそれであり、だから執拗《しつよう》なガスに苦しめられて数日間にわたる難航をつづけて来た北海帰りの汽船は、毎三十秒に一閃光を発するその怪しげな灯質をうっかり誤認して、うれしや犬吠崎が見えだしたとばかり、右舷《うげん》に大きく迂回《うかい》しようものなら、忽《たちま》ち暗礁に乗り上げて、大渦の中へ巻き込まれてしまうというのだ。船乗りには、かつぎ屋が多い。うそかまことかこのように大それた噂が、枝に葉をつけておいおいに船乗り達の頭へ強靭《きょうじん》な根を下ろしはじめた矢先き、それはちょうど一月ほど前の濃霧の夜、またしても汐巻沖で坐礁大破した一貨物船が、数十分にわたる救難信号《エス・オー・エス》の中で、汐巻灯台の怪異を繰り返し繰り返し報告しながらそのまま消息を断ってしまったという事件が起き上った。ここで問題は俄然《がぜん》表沙汰《おもてざた》になり、とうとう汐巻灯台へ本省からのきびしい注意があたえられた。
 ところがこの灯台は逓信省灯台局直轄の三等灯台で、れッきとした看守人が二人おり、その家族や小使を合わせて目下六人もの人々が暮しているのだ。しかもその二人の看守の中の一人というのが、すこぶるしっかり者で、謹厳そのもののような老看守だ。歳《とし》は六十に近く、名前を風間丈六といい、娘のミドリと二人暮しで、そのどことなく古武士のおもかげをさえもった謹厳な人格は、人々の崇敬の的となっていた。そしてまた一段と頼もしいことに、この老看守は人一倍はげしい科学への情熱を持っており、歳に似ず非迷信的で、本省からの調査忠告に対しても、「灯台には毎夜交替で看守がつくのだから、そのような馬鹿気たことはあるはずがない、それは多分、深いガスのながれや、またそのガスの中から光を慕って蝟集《いしゅう》するおびただしい渡り鳥の大群などによって、偶然[#「偶然」は底本では「隅然」と誤植]にも作られた明暗であり、それがまた尾をつけ鰭《ひれ》をつけて疑心暗鬼を生むのであろう」と、けんもほろろにはねつけた。
 けれどもこの謹厳な老看守の声明を裏切って、汐巻灯台は、とうとう決定的な異変をひき起したのだ。
 はじめ、正確に放たれていた十五秒ごとの閃光が、不意に不気味な不動光に変ったかと思うと、灰色のガスの中へなにか神秘的な光の尾を、そのままわずかに二秒ほども遠火のように漂わせて、それから急に、しかもハッキリと不吉な暗《やみ》に溶けこんでしまった。ただ、救いを求めるような霧笛だけが、ときどき低く重く、潮鳴の絶え間絶え間に聞えていた。
 さて――なんかといううちに、間もなく汐巻岬の突端にたどりついたわたし達は、光を失った三十メートルの巨大な白塔が、ガスの中からノッソリと見え始めたころ、不意に前方の闇《やみ》の中からものもいわずに歩いて来た二人の男に出会った。灯台の三田村無電技手と小使の佐野だ。
「……あ、皆様……」
 と小男の小使は、わたし達を認めると、すぐに走り出て声をかけた。
「これはこれはよく来て下さいました」
 すると三田村技手が、押しかぶせるように、
「故障で、無電がきかないんです。ちょうどこれから、試験所までお願いに上がろうと思っていたところです」
 なにか妙にそわそわしたぎこちない二人の物腰からわたしは、なみなみならぬ事件が起きたのだな、と思った。わたし達と一緒に、引き返して歩きながら三田村技手が言った。
「じつは、当直の友田看守が、ひどいことになったです。それがとても妙なんで、ま、風間さんが詳しくお話しするでしょうが」
 するとわたし達のうしろで、小使がふるえ声で突飛もないことをいった。
「とうとう、出ましただ」
「なに、出た?」
 と東屋所長が聞きとがめた。すると小使は、自分の言葉を忌むように二、三度首を横にふりながら、
「……はい……ゆ、幽霊が、出ましただ……」

       二

 やがてわたし達は、コンクリートの門をくぐって明るい灯台の構内へ入った。向って右側に並んだ小さな三棟の官舎や左側の無電室には、明るい灯がともっているが、真ン中の海に面した灯台の頭は真っ暗闇だ。地上の灯の余映を受けて、闇の中へ女角力《おんなずもう》の腹のようにボンヤリと浮き上ったその白塔の下では、胡麻塩髭《ごましおひげ》を生やして乃木大将然とした風間老看守が、色白な中年の女をとらえて、なにやらしきりに引き留めているような様子だったが、わたし達を認めると、ただちに小使の佐野に女のほうをまかせて官舎の方へ追い払うと、やって来た。
「あれは友田君の細君のあきさんです。ひどい心気|病《や》みですから、もう少し[#「もう少し」は底本では「もし少し」と誤植]落ちつかないことには、現場が見せられないんです。いやどうも、とんでもないことになりました」
 そう言って、風間老看守は、手燭《てしょく》の蝋燭《ろうそく》に火をつけようとするのだが、手がふるえて火が消えるので、何度も何度もマッチをすりつづけた。
 わたしは今までにも数回この老看守には会っているのだが、こんなに彼が蹌踉《そうろう》としているのを見たのは初めてだ。あの謹厳な古武士のようなおもかげは、いまはもう微塵《みじん》も見えず、蝋燭の焔《ほのお》を絶えず細かにふるわせながら、わたし達の先に立って、灯台の入口のドアをしずかに開きながら、ふり返って言った。
「……ま、とにかく、現場を一度見てやって下さい」
 そこで東屋所長とわたしと三田村技手の三人は、老看守の後につづいて、うす暗い階段室に入った。ところが塔内に入ってドアを締め終った老看守は今度は身をすりつけるようにして急に声をおとすと、訴えるように言った。
「……わたしは、生まれてはじめて、幽霊をみました……」
 あのしっかり者で聞えた風間老人までが、うって変ってこのようなことを言うのに、わたしは思わず身の固くなるのを覚えた。
「……いや、初めからお話しましょう」
 と風間老人は、わたし達の先に立って、暗い急な螺旋《らせん》階段を登りながら言った。その声がまた、長い高い塔内に反響して、なんとも言えない陰《いん》にこもった呟《つぶや》くような木霊《こだま》を伴うのだった。
「……わたしは今夜は非番でしたが、あの友田看守は、このごろ昼間無電のほうをチョイチョイ手伝いますので、つい疲れてときどき居眠りをするようですし、変な噂はたつし、それに、今夜はわたしの横着娘が少しばかり加減が悪いので、それやこれやで、どうも思うように熟睡出来ませんでしたが……それはちょうど、一時間ほど前のことです……まずわたしは、最初ゆめうつつの中で、突然屋根の上のほうでガラスの割れるような大きな音を聞いたのです。するとほとんどそれと同時に、おなじ方角で、なにかしら、機械でもこわれるようなはげしい金属的な音がいたしました。で、びっくりして飛び起きたわたしは、しばらく呆然《ぼうぜん》としておりましたが、なにしろ天井の方角でそのような音がしたとすれば、この灯台よりほかにありませんので、急に堪《たま》らない不安にかられて官舎の玄関までとび出しました。見れば塔の頂上のランプ室は灯が消えて真っ暗です。わたしは思わず大声をはり上げて、ランプ室に当直しているはずの友田君を呼び上げました。すると、その返事のかわりに、こんどはこの塔の根元で、突然大きな地響きが起りました。こいつア大変だと急いでとび出したときに、向うの無電室からわたしとおなじようにとび出して来た、三田村君に出会いました」
 老看守はここで一息ついた。なにかしら錯覚でもおこしそうなこの螺旋階段は、ひどくわたしの神経を疲れさす。わたし達の後から登って来た三田村技手が、このとき口を入れた。
「全くそのとおりです。わたしも風間さんとおなじように気味の悪い音を聞きました。そしてこの下の入口のところへ来たときに、この塔の頂上のほうから、低いながらも身の毛のよだつような呻《うめ》き声を聞きました……友田さんのでしょう……そしてその呻き声がやむかやまぬに、今度はなんとも名状しがたい幽霊の声を聞いたのです」
「幽霊の声?」
 東屋氏が真剣に聞きとがめた。
「ええ幽霊の声ですとも。あれが人間の声であるものですか!……それは、笑うようでもあれば、泣くようでもあり……そうそう、まるで玩具《おもちゃ》の風船笛みたいでした」
「渡り鳥の中にも、あれに似た声を出すのがあったが」
 と老看守だ。
「いや、似ていますが、あれとはまた全然違います。むしろさかり[#「さかり」に傍点]時の猫の声のほうが、余程似ています」
「ああそうそう、そうだったな」
 と風間看守が引き取って言った。「……そこでわたしは、とりあえず三田村君に無電の方を頼んで、蝋燭の火をたよりにこの階段を登ったのです。そしてこの頂上のランプ室兼当直室で、とうとう、恐ろしいものを……」
「幽霊かね?」
 と東屋所長が言った。
「そうです……あいつは、ランプ室の周囲の大事な玻璃窓《はりまど》を、外から大石でぶち破って侵入したのです」
 ちょうどこのとき、三田村技手が、目の前の階段を指さしながら、大きな叫びを上げた。見れば、うす暗い蝋燭の火に照らし出されて、階段の踏面《ふみづら》にたまったどす黒い血の流れが、蹴上げからポタリポタリとだんだん下へしたたり落ちていた。わたしは思わず息を飲みこんだ。そしてものも言わずにランプ室に躍り込んだわたし達は、とうとうそこでほんとうに化け物の狼籍《ろうぜき》の跡を見たのだった。
 円筒形にランプ室の周囲を取り巻いた大きなガラス窓の、暗黒の外海に面したほうには、大きな穴があき、蜘蛛《くも》の巣のようなひびが八方にひろがり、その穴から冷たい海風がサッとガスを吹き込むと、危なげな蝋燭の火がジジッと焦立《いらだ》つ。うす暗いその光に照らされて、小さな円い室《へや》の中央にドッシリと据えられた、大きなフレネル・レンズのはまった三角筒の大ランプは、その一部に大破損を来し、暗黒のその火口からは、石油ガスが漏れているらしく、シューシューとかすかな音を立てていた。そしてその大きなカップ状の水銀槽にささえ浮《うか》められた大ランプの台枠《だいわく》の縁《ふち》には、回転式灯台特有の大きな歯車が仕掛けてあるのだが、その歯車に連なる精巧な旋回装置は無残にも粉砕されて、ランプの回転動力なる重錘《おもり》を、塔の中心の空洞につるしているはずのロープは、もろくも叩《たた》き切られていた。
 けれども何にもまして無惨で思わずわたし達の眼をそむけさしたのは、破壊された旋回機のかたわらに、口から血を吐き、両の眼玉をとび出さして、へなへなとつくね[#「つくね」に傍点]たように横たわっている友田看守の死体だった。そしてなんとその腹の上には、ひどく湿りをおびた巨大な岩片《いわ》が、喰《く》い込むように坐《すわ》っているのだ。
「……これやアひどい……ずいぶん大きな石ですね」
 東屋氏が口を切った。
「さあ、四、五十貫はありますね」と三田村技手が言った。
「こいつア大の男が二人かかっても、この塔の上まではちょっと運べませんね……まして、外の海のほうから、三十メートルの高さのこのガラス窓を破って投げ込むなんて、正に妖怪《ようかい》の仕業《しわざ》ですよ」
「で、あなたの見た幽霊というのは?」
 と東屋氏が、風間老看守のほうへ向き直った。すると老看守は引ッつるように顔を顰《しか》めながら、
「……先ほど申しましたように、わたしはこの室《へや》へ入った瞬間に、その割れた玻璃窓の外のデッキから、それは恐ろしいやつが、海のほうへ飛び込んだのです……それは、なんでも、ひどく大きな茹蛸《ゆでたこ》みたいに、ねッとりと水にぬれた、グニャグニャの赤いやつでした……」
「蛸?」
 と東屋所長が首をかしげた。
「蛸なら吸盤があるから、ここまで登って来るかもしれないね」
 とわたしは冗談らしく言った。すると東屋氏は、
「いや、この近海のように寒流の影響のある海には、二、三メートルからの巨大なミズタコというやつはいるが……けれども、そんな赤いものではない」
 そう言って、しきりに首をひねり始めた。
 見ればリノリウムを敷き詰めた床《ゆか》の上には、なるほどそのような妖怪の暴れた跡らしく、点々としておびただしいガラスのかけ[#「かけ」に傍点]や血海のほかに、なんとなくぬらぬらした穢《きたな》らしい色の液体が、ところかまわずベタベタと一面にこぼれており、それがまたなんとも言えない生臭いような臭気をさえ、室中に漂わせているのだ。

       三

「……わからん」
 ややあって、東屋氏が投げ出すように言った。
「さっぱりわからん……けれども、これだけのことはわかるね」と腕組みを解きながら、「とにかくわたし達試験所の当直の報告や、あなた方のお話を綜合《そうごう》してみても、……まずこの大石が、玻璃《はり》窓を破って室内に飛び込み、ランプや旋回機を破壊して当直を叩き殺す。でそのとたんに、ランプの回転が止って閃光《せんこう》が不動光になり、間もなくガス管の故障で灯も消える……一方粉砕された旋回機に巻きついていたロープは切れて、回転動力の重錘《おもり》というか分銅というか、とにかくそいつが、この塔の中心を上下に貫いている三十メートルの円筒の底へドシンと落ちて地響きを立てる……当直が断末魔の呻《うめ》き声を上げる……そうだ。そしてそのとき、変な鳴き声を出して、こんな気味のわるい分泌液をたらしながら、幽霊が侵入する……だが、それから先は、さっぱりわからん…………」
「わたしは、こんな目に出合ったのは、生まれて初めてだ!」
 風間老看守が吐き出すように言った。すると東屋所長が老看守に向って、
「とにかくあなたは、この惨劇をみつけてから、どうされたんです」
「わたしはびっくりして、下へ降りて行き途中で、登って来る三田村君に逢《あ》いました」
「無電が通じなかったからです」
 三田村技手が言った。すると風間老人が、
「むこうの鉄柱からこの玻璃窓の前の手すりへはったアンテナが、大石のために切れてしまったからです……で、それから、わたしは小使を起そうと思って下へ、三田村君は現場へと、すぐに別れました。でも、とにかくなんとかしなければなりませんので、しばらく迷ったあげく、三田村君と小使に、とりあえず試験所へご後援を願いに向わせたんです」
「いやそうですか。一向お役にも立ちませんが」と東屋氏が、われに帰ったように言った。「じゃあとにかく、こうしてもいられませんから……そうだ、風間さん、あなたは、現場の証拠品に手をつけないようにして、早速予備灯の支度をなさってはいかがですか。海は、真っ暗ですよ。……それから三田村さんは、アンテナを修繕して、少しも早く通信を始めて下さい。わたし達もお手伝いしましょう」
 そこで二人はしばらく戸惑うようにしていたが、やがて波の音にせき[#「せき」に傍点]立てられるように、そわそわと降りて行った。そしてわたし達は、それぞれにはげしい興奮を押えながら、あらためて取り散らされた室内を呆然《ぼうぜん》と見廻すのだった。
 ところがここで、はからずもわたしは重大な発見をした。それは一丁のなまくらな手斧《ておの》を、室内のうす暗い片隅から拾い上げたのだ。しかもそのにぶい刃先には、なんと赤黒い血がこびりついていた。
 この発見で顔色を変えた東屋氏は、早速かがみ込んで、あらためてしげしげと友田看守の死体を眺め始めた。が、間もなく死人の頭の右耳の上に、この手斧でなぐりつけたらしい新しい致命傷をみつけて立ち上った。
「これアきみ、傷口の血のかたまり工合から見ても、この傷のほうが、先に加えられたほんとうの致命傷らしいね……すると、あの石の飛び込んだときには、もう友田看守は死んでいたんだ……だが、そうすると、あの石の飛び込んだ音の後から聞いたという呻《うめ》き声は、死人のものなどではないことになる……これアだいぶん事情が違ってきた」
「じゃあやっぱりあれも、幽霊の唸《うな》り声?」
 とわたしは思わず声を出した。
 けれども東屋氏は、それには答えないでしきりに苦吟しつづけていたが、やがて語調をあらためて言った。
「ねえきみ……ぼくはまず、なんと言っても、この奇怪な暴れ石の出所のほうが先決問題だと思うよ……ね、この岩片《いし》には、この辺の海岸にはいくらでもいるフジツボやアマガイのような岩礁《がんしょう》生物が、少しもついていないところをみると、どうしてもこいつは、満潮線以下にあったものではないね。といっても、このしめり工合《ぐあい》じゃあ、まさか山の中のものじゃないし、どうだい、こうしている間に、ちょっとこの下のしぶき[#「しぶき」に傍点]のかかりそうな波打ち際を散歩してみないかい」
 というわけで、やがてわたし達は、灯台の根元の波打ち際へ降り立った。
 そこでは、闇の外洋から吹き寄せる身を切るような風が、磯波《いそなみ》の飛沫《ひまつ》とガスをいやというほどわたし達に浴びせかけた。けれどもすぐにわたし達は、塔の根元の一番|烈《はげ》しい波打ち際の一段高くそびえた岩の上で、おなじような岩片《いし》が飛沫にぬれていくつも転がっているのを、ほとんど手さぐりで発見した。
 ところがはからずもわたしは、おなじ岩の上で、わたしの足元から、岩の裂け目をクネクネと伝わって、一本の太い綱が、波打ち際から海の中へ浸《ひた》っているらしいのを、拾い上げた。はてな? と思って引っ張って見ると、ずるずると出てくる。いい気になって手繰《たぐ》りよせる。なかなか長い。やがてその先端がきたかと思うと、妙なことに、そこにはまた別の、今度はずっと細い紐《ひも》の先がしっかり撚《よ》りつけてある。引っ張る。ところがこれがまたおなじようになかなか長い。やっと全部手繰り終ったわたしは、
「妙なものですね」
 とわれながら妙な声を出した。すると今までずッとわたしの奇妙な収穫物をみつめていた東屋氏は、
「……こいつア面白くなってきた。ねきみ、これが考えられずにいられるものか!」
 そう言ってわたしからその綱を取り上げると、
「何に使ったものか、聞いてみよう」
 と歩きだした。
 構内へ戻ると、ちょうど倉庫の前で三田村技手が、針金の束を引っ張り出してしきりになにかやっている。東屋氏は早速始めた。
「この綱は灯台のでしょう?」
「そうです。倉庫にいくらも入れてあるやつです。おや、こんな紐のついたのは……はて、どこから拾ってこられたんですか?」
 けれども東屋氏は答えようともしないで、しきりに暗《やみ》の空をふり仰いでいたが、やがて突飛もないことを訊《き》きだした。
「この灯台の高さは、ランプ室の床《ゆか》までで三十メートルでしたね。じゃあきみ、この綱の長さを計って下さい」
 三田村技手は、手もとの巻尺ではかり始めた。
「……綱も紐も、両方とも二十六メートルずつあります」
「なに二十六メートル?……待アてよ?」
 とまたしばらく闇空《やみぞら》を睨《にら》めていたが、
「ね、三田村さん。あの回転ランプの重量《めかた》は、どれぐらいあります?」
「さあ、一トンはあるでしょう」
「一トン……一トンというと二百六十六貫強ですね。じゃああのランプをグルグル廻しながら、三十六メートルの円筒内を下って来る、あの原動力の重錘《おもり》というか分銅は、随分重いでしょうね?」
「そうですね、八十貫は充分ありましょう……大きな石臼《いしうす》みたいですよ……そいつがジリジリ下まで降り切ってしまうと、また捲《ま》き上げるんです」
「なるほど、最近捲き上げたのはいつですか?」
「昨日の午後です」
「じゃあ今夜は、分銅はまだ塔の上のほうにあったわけですね?」
「そうです」
「いやどうも有難う。あ、それから、この無電室でちょっと一服やらしてもらいますよ」
 そう言って東屋氏は、わたしを引っ張って無電室へ入ると、ドアをしめて、
「さあきみ、少しずつわかって来たぞ。まずはぼくの組み立てた仮説を聞いてくれたまえ」

       四

 東屋氏はそばの椅子《いす》に腰をおろすと、一服つけながら、話し始めた。
「まず、化け物にせよ人間にせよ、とにかくあの不敵な狼藉者《ろうぜきもの》が、この太い綱の一方の端をあの塔の頂きのランプ室から、玻璃窓の下の小さな通風孔をとおして、外の高い岩の上へたれておく。それから下へ降りて来て岩の上で例の岩片《いし》をたれている太い綱の端でしばっておいてふたたび塔上へ登る。そしてランプ室においてあるほうの綱の端を、旋回機の蓋《ふた》をあけて、円筒内の頂きへほとんど一杯に上っている分銅の把手《とって》へ、かたわな[#「かたわな」に傍点、底本では誤って「かたわ」に傍点]結びというかひっとき[#「ひっとき」に傍点]結びというか、とにかくそれで縛りつけ、そのちょっと引っ張ると解けるひっとき[#「ひっとき」に傍点]結びの短い一端へ、この細紐をこのとおりに結びつけて、さて旋回機のウィンチに捲きついているロープを、そうだ、あの手斧《ておの》で叩ッ切る。すると……」
「ああつまり釣瓶《つるべ》みたいだ」
 とわたしは思わず口を入れた。
「百貫近いその分銅のすさまじい重力を利用して、大石を暴れ込ましたというんですね。だが、そうすると、玻璃窓や機械のこわれる音とほとんど同時に、分銅の地響きがしなければなりませんが」
「もちろんその点も考えたよ」と東屋氏もつづける。「ところがきみ、ほら、綱は分銅の落ちる三十メートルの円筒の深さよりも、故意か偶然か、四メートルも短いじゃないか。だからつまり、あの地響きは、――海上から化け物が投げ込んだ暴れ石に、旋回機が砕かれたときに傷ついたロープが、そのあとだんだん痛んでいって、ついに切れて自然に分銅が落ちて地響きがした――などというのではなくて、友田看守を殺し、あのランプ室の破壊をぼくがいま言ったような方法で行った怪人物が、一端を分銅の把手《とって》のひっとき[#「ひっとき」に傍点]結びの端へ縛り他の一端をランプ室で手もとへ残しておいたところの、あの細紐を、破壊後に引っ張ると、果してひっとき[#「ひっとき」に傍点]結びは解けて、それまで途中にぶら下っていた分銅は、俄然《がぜん》円筒底へ落ちる。そして二人の証人が、ガラスや機械のこわれる音のしばらく後から聞いたという、地響きを立てたのだ」
「なるほど」
 わたしは領《うなず》いてみせた。
「一方その怪人物は、解けた綱を手繰り上げると、友田看守の腹の上に坐った岩片《いし》のほうも解いて、階段から降りると物音に驚いて登って来る人に見られるから、ランプ室の外のデッキの手すりへおなじように綱をひっとき[#「ひっとき」に傍点]結びにして、それをつたって下の高い岩の上へ降りる。塔の根元よりは五、六メートルも高い岩だ。そしてひっとき[#「ひっとき」に傍点]結びを解いて、不要になった綱を海中へ投げ込む……」
「なるほど、素晴しい」
 わたしは思わず嘆声を上げた。「それならどんな力のない男でも、少し動きさえすれば楽にやれますね。じゃ一体、それは幽霊の仕業《しわざ》か、それとも人間の仕業か、ということになりますね」
「さあ、それが問題だよ」と東屋所長は立ち上りながら言った。
「暴れ石のからくりもこうわかってみれば、たしかに人間の仕業としか思われないこまかさがある。けれども一方、あの謹厳な正直者の風間看守は、たしかに怪異の姿を見たと言うし、ランプ室の床に四散していた汚水といい、妙な唸り声や、鳴き声といい……ああとにかく、もう一度塔の上へ登ってみよう」
 そこでわたし達は、ふたたび塔上のうす暗いランプ室へやって来た。けれどもそこには、三田村技手がいくつかの荷物を持って、わたし達よりも一足先に登って来ていた。そしてわたし達を見ると、これからアンテナの取付工事をするのだが、失礼ながらちょっと手伝っていただきたい、と申し出た。そこでわたしは、玻璃窓の外側の危な気なデッキに立って、なんのことはない、幾本かの針金の端を持って、即製の電気屋になった。
 だいぶん風が出て来て、さしものふかいガスも少しずつ吹き散らされてきたようだが、そのかわり波が高くなって、わたし達の立っているデッキから三十メートル真下の岩鼻に、眩暈《めまい》のしそうな波頭がパッパッと白く噛《か》み砕ける。
「ずいぶん高いね」と東屋氏が言った。
「これだけのところを、綱につたわって降りるのは大変だ……」とそれから、突然元気な調子になって、そばに仕事をしていた三田村技手へ、急に妙なことを言い出した。
「すみませんが、ちょっとあなたのてのひらを見せて下さい」
 ――ああ東屋氏は、てのひらの胼胝《たこ》で怪人物を突き止めるつもりだ。なるほどこれは名案だ!
 けれども、三田村技手のてのひらには胼胝は出来ていなかった。東屋氏は急にそわそわし始めると、テレ臭そうにわたしと三田村技手を塔上に残してそそくさと降りて行った。
 アンテナ工事を手伝いながら見ていると、間もなく地上へ降り立った東屋氏は、ちょうど官舎のほうから出て来た風間老人へ、
「まだ予備灯の仕度は出来ませんか?」と言った。
「ええ、まだこれから、掃除をしなければなりませんから」
 風間老人の声は、なぜか元気がない。
「すみませんが、ちょっとあなたのてのひらを見せて下さい」
 と案の定切り出した。これは面白くなって来た、と思ったのも束《つか》の間《ま》、やっぱり風間老人のてのひらにも胼胝《たこ》は出来ていなかったと見えて、やがて老看守は倉庫の中へ入り、東屋氏は、今度は官舎のほうへ出掛けて行った。そしてわたし達の視野から姿を消してしまった。
 アンテナ工事はなかなか困難だ。わたしの両手は折れそうに痛くなった。その上ここはひどく寒くて、眩暈《めまい》もする。けれどもやがてその困難な仕事がほとんど出来上ったころに、東屋所長が非常に緊張した顔つきで、飛び込むように帰って来た。
 東屋氏は明らかにただならぬ興奮を押えつけているらしく、途切れ途切れに言った。
「……あの細君、自分の亭主の死体が、見られないはずはないって、小使に喰《く》ってかかってたよ……早く見せて上げたほうが、かえっていいと思うが……」
「てのひらはどうでした?」わたしは待ちかねて尋ねた。
「なにてのひら……うん、小使にも細君にも、胼胝《たこ》などは出来ていなかったよ」
「じゃあ、やっぱり妖怪の……」
「いや、まあ待ちたまえ……ぼくはそれから、そのお隣の風間さんの官舎へ、ちょっと失礼して上らしてもらったんだ、もちろん娘さんに逢《あ》うつもりでね……そしてそこで、大発見をした!」
「大発見? じゃあ、寝ている娘のミドリさんのてのひらに胼胝でもあったんですか?」
「いいや、違う。それどころじゃあない」
「すると娘さんの身に、何か異変でも?」
「冗談じゃあないよ。ぼくはてんから[#「てんから」に傍点]娘さんなど見はしない。彼女は、どこの部屋にもいやしなかった」
「ミドリさんがいなかったですって!?[#「!?」は第3水準1-8-78、117-3]」
 三田村技手が聞きとがめた。すると東屋氏は、うす暗い蝋燭《ろうそく》の灯に、大きな自分の影法師をニュッとのめら[#「のめら」に傍点]しながら、
「うん、そのかわり、さっき老人がここで見たという……あの赤いグニャグニャの幽霊に出会ったよ!」

       五

 やがて東屋氏は、驚いているわたしを尻目《しりめ》にかけ、三田村技手へあらたまった調子で言った。
「ところで三田村さん。あなたは事件のあった直後にここへ登って来られたとき、階段の途中で風間さんに逢われたのでしたね。風間さんは、何か手に持っていませんでしたか?」
「……そういえば、洋服の上着を脱いで、こう、右手に持っていられました」
「なるほど。有難う。じゃあもう一つ訊かせて下さい。あの娘さんは、何歳《いくつ》ですか?」
「ええと、多分、二十八です」
「品行はどうですか?」
「えッ、品行?……ええ、いや、なんでも、大変利口な、いい娘《こ》だったそうですが……」
「いや、ここだけの話ですから、遠慮なく聞かせて下さい」
「はア……以前は、よかったんですが……それが、その……」と三田村技手はひどく困ったふうで、
「……ちょうど去年の今ごろのことでしたが、当時風間さんの宅に、しばらく厄介になっていた或《あ》る貨物船の機関士と、いい仲になって、家を飛び出したのがそもそもよくなかったんです……なんでもその後、横浜あたりでどうにかやっていたそうですが、なんしろ相手がよくない船乗りのことで、定石《じょうせき》どおり、子供は孕《はら》む、情夫《おとこ》には捨てられたということになって、半年ほど前に、すごすご帰って来たんです」
「ふむ、それで……」
「……それで、大変朗かな娘さんでしたが、それからはガラッと人間が変ったようになりました……そんなふうですから、自然と父親の風間さんからも、なにかにつけて、いつも白い眼で見られていたようです。……全く、考えてみれば、気の毒です……」
 そう言って三田村技手は、思わず自分の軽口を悔むような、いやな顔をして両手を揉《も》み合わせた。けれども、いままでじっと聞いていた東屋氏は、やがて暗い顔を上げると、呟《つぶや》くように言った。
「……ぼくは、あの暴れ石のからくりを弄《ろう》したものが、なんだかわかりかけてきたようだ」
「いったいそれはだれです! 娘さんですか、それとも……」
「もちろんそれは、娘のミドリさんだよ」
 とそれから東屋氏は、そばの椅子へしずかに腰を下ろし、両膝《りょうひざ》に両肘《りょうひじ》をのせて指を前に組み合せ、ためらうように首を捻《ひね》りながら、ボツリボツリと切り出した。
「……これは、どうも少し、臆測《おくそく》に過ぎるかもしれない……けれども、どうしてもぼくの想像は、こんなふうにばかり傾いてくるんだ。それに、どうもロマンスというやつは、畑違いでぼくには苦手だが、ま、……ここに一人の、純心な灯台守の娘があったとする。あるとき難波船から救い上げた一人の船員と、彼女は恋に陥る。ところが父親は非常に厳格な人で、娘のそのような気持を受け容《い》れない。当然若い二人は、相携えて甘い夢を追い求める……けれども、やがて彼女の身に愛の実の稔《みの》るころには、おとこの心は船に乗って、遠い国へ旅立つ……そしてひとすじの心を偽られた彼女は、堪え難い憎しみを抱いて、故郷へ帰る……けれども父親の冷たいもてなしは、彼女の心を狂おしいまでに掻《か》き立て、そして夜ごと日ごとに沖合をとおる夢のような船の姿は、彼女の心に憎しみの極印を焼きつける。おとこへの憎しみは船乗りへの憎しみとなり、船乗りへの憎しみは船への憎しみとなり、船という船を沈めつくさんとしてか、とうとうきびしい掟《おきて》を犯して船乗りの命の綱の灯台へ、ガスの深い夜ごとに、看守の居眠り時を利用して沙汰《さた》限りの悪戯《わるさ》をしかける……けれども、ある夜とうとう看守にみつけられた彼女は、驚きのあまりそばにありあわせた手斧《ておの》を振るって看守の頭へ打ち下ろす。そして自分の犯した恐ろしい罪に戸惑いながらも、犯跡を晦《くら》ますために暴れ石のからくりを弄《ろう》する……そうだ、これはまた、前から組み立てていた灯台破壊の計画と見てもいい……」
「じゃあ、いったい、あの恐ろしい化け物はどうなるんです」
 わたしは思わず口を入れた。
「そんなものはなかったよ」
「だって、あなた自身」
「まあ待ちたまえ。話をぶちこわさないでくれたまえ……あの親爺《おやじ》さんは、大変厳格で正直で責任感が強く、ただでさえ白い眼で見ていた娘の、こんなにも大それた罪を許そうはずはない。けれども、それにもかかわらず、物音を聞いてここへかけ登って来た瞬間から、老人の気持はガラッと変って、生涯に一度の大嘘《おおうそ》をついて化け物を捏造《ねつぞう》し、娘の罪を隠し始めたのだった」
「だってそうすると、この化け物の狼藉《ろうぜき》の跡は、いったいどうなるんです。この怪しげな水や、三田村さんもたしかに聞いたというあの呻《うめ》き声や、変な鳴き声は?」
「まあ聞きたまえ……ね、あのとき、蝋燭をともして恐怖にわななきながら、その階段を登って来た老看守は、このランプ室でいったいなにを見たと思う?……破《わ》れた玻璃窓でもない。こわれた機械でもない。友田看守の死体でもない。いいかい。二人の生きた人間を見たのだよ!……恐ろしい罪を犯し、それをまたきびしい父親にみつけられて、半狂乱で玻璃窓の外から、真逆様《まっさかさま》に海中へ飛び込んだ救うべくもない不幸な娘と、それから、もう一人……蛸《たこ》のようにツルツルでグニャグニャの、赤い、柔らかな……そうだ、精神的なショックや、過労の刺戟《しげき》のために、月満たずして早産《うま》れおちたすこやかな彼の初孫《ういまご》なんだ!……」
 わたしは思わずハッとした。
 ――ああそうか、そうだったのか! それでこそあの怪しげな呻き声も、のたうつような戦慄《せんりつ》陣痛の苦悶《くもん》であり、奇妙な風船笛のような鳴き声も、すこやかな産声《うぶごえ》であり、怪しげな濁《にご》り水《みず》も、胎児の保護を終えた軽やかな羊水であったのか、とわれながらいまさらのように呆《あき》れ返るのだった。そして可愛《かわい》い初孫の顔を見た瞬間に、勃然《ぼつぜん》として心の底に人間の弱さをおぼえた風間老看守の心境も、なんだか、わかるような気がしきりにし始めるのだった。
 ちょうどこのとき、わたしの快い夢を破って、しずかにドアのきしむ音が聞え、やがてうちしおれた老看守風間丈六が、腫《は》れぼったい瞼《まぶた》を暗い灯ににぶく光らせながら、悄然《しょうぜん》と入口に立ち現われた。

底本:「新青年傑作選 爬虫館事件」角川ホラー文庫、角川書店
   1998(平成10)年8月10日初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。

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