「獄中記」:立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集

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「獄中記」

立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した文芸作品と、著作権者が「タダで読んでもらってかまわない」と判断したものを掲載しています。本・文庫・新書・単行本・小説・エッセイ・未出版物・既出版物など。


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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)髯女郎《インテレクチュアル・プロスティテュト》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
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   市ケ谷の巻

 前科割り[#「前科割り」はゴシック体]
 東京監獄の未決監に「前科割り」というあだ名の老看守がいる。
 被告人どもは裁判所へ呼び出されるたびに、一と馬車(この頃は自動車になったが)に乗る十二、三人ずつ一組になって、薄暗い広い廊下のあちこちに一列にならべさせられる、そしてそこで、手錠をはめられたり腰縄をかけられたりして、護送看守部長の点呼を受ける。「前科割り」の老看守は一組の被告人に普通二人ずつつくこの護送看守の一人なのだ。いつ頃からこの護送の役目についたのか、またいつ頃からこの「前科割り」のあだ名を貰ったのか、それは知らない。しかし、少なくとももう三十年くらいは、監獄の飯を食っているに違いない。年は六十にとどいたか、まだか、くらいのところだろう。
 被告人どもが廊下に呼び集められた時、この老看守は自分の受持の組は勿論、十組あまりのほかの組の列までも見廻って、その受持看守から、「索引」をかりて、それとみんなの顔とを見くらべて歩く。「索引」というのは被告人の原籍、身分、罪名、人相などを書きつけたいわばまあカードだ。
「お前はどこかで見たことがあるな。」
 しばらくそのせいの高い大きなからだをせかせかと小股で運ばせながら、無事に幾組かを見廻って来た老看守は、ふと僕の隣りの男の前に立ちどまった。そしてその色の黒い、醜い、しかし無邪気なにこにこ顔の、いかにも人の好さそうな細い眼で、じろじろとその男の顔をみつめながら言った。
「そうだ、お前は大阪にいたことがあるな。」
 老看守はびっくりした顔付きをして黙っているその男に言葉をついだ。
「いや、旦那、冗談言っちゃ困りますよ。わたしゃこんど初めてこんなところへ来たんですから。」
 その男は老看守の人の好さそうなのにつけこんだらしい馴れ馴れしい調子で、手錠をはめられた手を窮屈そうにもみ手をしながら答えた。
「うそを言え。」
 老看守はちっとも睨みのきかない、すぐにほほえみの見える、例の細い眼をちょっと光らせて見て、
「そうだ、たしかに大阪だ、それから甲府にも一度はいったことがあるな。」
 とまた独りでうなずいた。
「違いますよ、旦那、まったく初めてなんですよ。」
 その男はやはりしきりともみ手をしながら腰をかがめていた。
「なあに、白っぱくれても駄目だ。それからその間に一度巣鴨にいたことがあるな。」
 老看守はその男の言うことなぞは碌に聞かずに、自分の言うだけのことを続けて行く。その男も、もうもみ手はよして、図星を指されたかのように黙っていた。
「それからもう一度どこかへはいったな。」
「へえ。」
 とうとうその男は恐れ入ってしまった。
「どこだ?」
「千葉でございます。」
 窃盗か何かでつかまって、警察、警視庁、検事局と、いずれも初犯で通して来たその男は、とうとうこれで前科四犯ときまってしまった。そして、
「実際あの旦那にかかっちゃ、とても遣りきれませんよ。」
 と、さっきから不思議そうにこの問答を聞いていた僕にささやいて言った。
 僕の前科[#「僕の前科」はゴシック体]
 本年の三月に僕がちょっと東京監獄へはいった時にも、やはりこの老看守は、その十二年前のやはり三月に僕が初めて見た時と同じように、まだこの前科割りを続けていた。
「やあ、また来たな、こんどは何だ、大分しばらく目だな。」
 老看守はそのますます黒く、ますます醜くなった、しかし相変らず人の好さそうな顔をにこにこさせていた。
 僕は今、この老看守に向った時の懐しいしかし恐れ入った心持で、僕自身の前科割りをする。
 と言っても、実は本当にはよく覚えていないんだ、つい三、四カ月前にも、米騒動や新聞のことでたびたび検事局へ呼び出されていろいろ糺問されたが、その時にもやはり自分の前科のことは満足に返事ができなかった。そしてとうとう、
「あなたの方の調べには間違いなく詳しく載ってるんでしょうから。」
 というようなことで、検事にそれを読みあげて貰って、
「まあ、そんなものなんでしょう。」
 と曖昧に済ましてしまった、ところが、あとでよく考えて見ると、検事の調べにも少々間違いがあったようだ。何でも前科が一つ減っていたように思う。
 当時の新聞雑誌でも調べて見ればすぐに判然するのだろうが、それも面倒だから、今はただ記憶のままに罪名と刑期とだけを掲げて置く。何年何月の幾日にはいって何年何月の幾日に出たのかは、一つも覚えていない。監獄での自分の名の「襟番号」ですらも、一番最初の九七七というたった一つしか覚えていない。これは僕ばかりじゃない。たしかに堺(利彦)にでも山川(均)にでも、山口(孤剣)にでも、その他僕等の仲間で前科の三、四犯もある誰にでも聞いて見るがいい。みんなきっと碌な返事はできやしない。それから次に列べた最初の新聞紙条令違犯(今は新聞紙法違犯と変った)の刑期も、ほんのうろ覚えではっきりは覚えていない。
[#ここから2字下げ]
一、新聞紙条令違犯(秩序紊乱)三カ月
二、新聞紙条令違犯(朝憲紊乱)五カ月
三、治安警察法違犯(屋上演説事件)一月半
四、兇徒聚集罪(電車事件)二カ年
五、官吏抗拒罪治安警察法違反[#「官吏抗拒罪」と「治安警察法違反」は二行に分かれている](赤旗事件)二年半
[#ここで字下げ終わり]
 これで見ると、前科は五犯、刑期の延長は六年近くになるが、実際は三年と少ししか勤めていない。先月ちょっと日本に立ち寄った革命の婆さん、プレシュコフスカヤの三十年に較べれば、そのわずかに一割だ。堺も山川も山口も前科は僕と同じくらいだが、刑期は山口や山川の方が一、二年多い筈だ。僕なんぞは仲間のうちではずっと後輩の方なんだ。
 初陣は二十二の春、日本社会党(今はこんなものはない)の発起で電車値上(片道三銭から五銭になろうとした時)反対の市民大会を開いた時の兇徒聚集事件だが、三月に未決監にはいってその年の六月に保釈で出た。そしてそのほかの四つの事件は、この兇徒聚集事件が片づくまでの、二年余りの保釈中の出来事なんだ。一から三までの三事件九カ月半の刑期もこの保釈中に勤めあげた。
 こうして二カ月かせいぜい六カ月の日の目を見ては、出たりはいったりしている間に、とうとう二十四の夏錦輝館で例の無政府共産の赤旗をふり廻して捕縛され、それと同時に電車事件の方の片もついたのであった。そして当時のありがたい旧刑法のお蔭で、新聞紙条令違犯の二件を除く他の三件は併合罪として重きによって処断するということで、電車事件の二カ年もまたすでに勤めあげた屋上演説事件の一月半もすべて赤旗事件の二カ年半の中に通算されてしまった。いわばまあゼロになっちゃったんだ。
 検事局では地団太ふんでくやしがったそうだ、そうだろう。保釈中に三度も牢にはいっているのに、保釈中だということをすっかり忘れていたんだ。しかし僕の方ではお蔭さまで大儲けをした。が、その年の十月から今の新刑法になって、同時に幾つ犯罪があっても一つ一つ厳重に処罰することになったから、もう二度とこんないい儲けはあるまい。
 それで二十七の年の暮、ちょうど幸徳等の逆徒どもが死刑になる一カ月ばかり前にしばらく目でまた日の目を見て、それ以来今日までまる七年の間ずっと謹慎している。
 だから、僕の獄中生活というのは、二十二の春から二十七の暮までの、ちょいちょい間を置いた六年間のことだ。そして僕が分別盛りの三十四の今日まだ、危険人物なぞという物騒な名を歌われているのは、二十二の春から二十四の夏までの、血気に逸った若気のあやまちからのことだ。
 とんだ木賃宿[#「とんだ木賃宿」はゴシック体]
 もっとも、その後一度ふとしたことからちょっと東京監獄へ行ったことがある。しかしそれは決して血気の逸りでもまた若気のあやまちでもない。現に御役人ですら「どうも相済みません」と言って謝まって帰してくれたほどだ。それは本年のことで、事情はざっとこうだ。
 三月一日の晩、上野のある仲間の家で同志の小集りがあった。その帰りに、もう遅くなってとても亀戸までの電車はなし、和田の古巣の涙橋の木賃宿にでも泊って見ようかということになって、僕の家に同居していた和田、久板の二人と一緒に、三輪から日本堤をてくって行った。この和田も久板も今は初陣の新聞紙法違犯で東京監獄にはいっているが、本年の二科会に出た林倭衛の「H氏の肖像」というのはこの久板の肖像だ。
 吉原の大門前を通りかかると、大勢人だかりがしてわいわい騒いでいる。一人の労働者風の男が酔っぱらって過ってある酒場の窓ガラスを毀したというので、土地の地廻りどもと巡査がその男を捕えて弁償しろの拘引するのと責めつけているのだった。
 その男はみすぼらしい風態をして、よろよろよろけながらしきりに謝まっていた。僕はそれを見かねて仲へはいった。そしてその男を五、六歩わきへ連れて行って、事情を聞いてそこに集まっているみんなに言った。
「この男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それで済む筈だ。一体、何か事あるごとに一々そこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上にはなるべく御厄介をかけないことだ。大がいのことは、こうして、そこに居合した人間だけで片はつくんだ。」
 酒場の男どももそれで承知した。地廻りどもも承知した。見物の弥次馬どもも承知した。しかしただ一人承知のできなかったのは巡査だ。
「貴様は社会主義だな。」
 初めから僕に脹れっ面をしていた巡査は、いきなり僕に食ってかかった。
「そうだ、それがどうしたんだ。」
 僕も巡査に食ってかかった。
「社会主義か、よし、それじゃ拘引する。一緒に来い。」
「それや面白い。どこへでも行こう。」
 僕は巡査の手をふり払って、その先きに立ってすぐ眼の前の日本堤署へ飛びこんだ。当直の警部補はいきなり巡査に命じて、僕等のあとを追って来た他の二人まで一緒に留置場へ押しこんでしまった。
 これが当時の新聞に「大杉栄等検挙さる」とかいう事々しい見だしで、僕等が酔っぱらって吉原へ繰りこんで、巡査が酔いどれを拘引しようとする邪魔をしたとか、その酔いどれを小脇にかかえて逃げ出したとか、いい加減な嘘っぱちをならべ立てた事件の簡単な事実だ。
 そして翌朝になって、警部が出て来てしきりにゆうべの粗忽を謝まって、「どうぞ黙って帰ってくれ」と朝飯まで御馳走して置きながら、いざ帰ろうとすると、こんどは署長が出て来て、どうしたことか再びまたもとの留置場へ戻されてしまった。
 かくして僕等は、職務執行妨害という名の下に、警察に二晩、警視庁に一晩、東京監獄に五晩、とんだ木賃宿のお客となって、
「どうも相済みません。どうぞこれで御帰りを願います」というお挨拶で帰された。
 元来僕は、ほとんど一滴も飲めない、女郎買いなぞは生れて一度もしたことのない、そして女房と腕押しをしてもいつも負けるくらいの実に品行方正な意気地なしなのだ。
 奥さんも御一緒[#「奥さんも御一緒」はゴシック体]
 それから、これは本年の夏、一週間ばかり大阪の米一揆を見物して帰って来ると、
「ちょっと警察まで。」
 ということで、その足で板橋署へ連れて行かれて、十日ばかりの間「検束」という名義で警察に泊め置かれた。
 しかしそれも、何も僕が大阪で悪いことをしたという訳でもなく、また東京へ帰って何かやるだろうという疑いからでもなく、ただ昔が昔だから暴徒と間違われて巡査や兵隊のサーベルにかかっちゃ可哀相だというお上の御深切からのことであったそうだ。立派な座敷に通されて、三度三度署長が食事の註文をききに来て、そして毎日遊びに来る女をつかまえて、
「どうです、奥さん。こんなところではなはだ恐縮ですが、決して御心配はいりませんから、あなたも御一緒にお泊りなすっちゃ。」
 などと真顔に言っていたくらいだからたぶん僕もそうと信じ切っている。当時の新聞に、僕が大阪で路傍演説をしたとか拘束されたとか、ちょいちょい書いてあったそうだが、それはみんなまるで根も葉もない新聞屋さん達のいたずらだ。
 その他、こういう種類のお上の御深切から出た「検束」ならちょっとは数え切れないほどあるが、それは何も僕の悪事でもなければ善事でもない。
 とにかく、僕のことと言うとどこででも何事にでも誤解だらけで困るので、まずこれだけの弁解をうんとして置く。
 初陣[#「初陣」はゴシック体]
「さあ、はいれ。」
 ガチャガチャとすばらしい大きな音をさせて、錠をはずして戸を開けた看守の命令通りに、僕は今渡されて来た布団とお膳箱とをかかえて中へはいった。
「その箱は棚の上へあげろ。よし。それから布団は枕をこっちにして二枚折に畳むんだ。よし。あとはまたあした教えてやる。すぐ寝ろ。」
 看守は簡単に言い終ると、ガタンガタンガチャガチャと、室じゅうというよりもむしろ家じゅう震え響くような恐ろしい音をさせて戸を閉めてしまった。
「これが当分僕のうちになるんだな。」
 と思いながら僕は突っ立ったまままずあたりを見廻した。三畳敷ばかりの小綺麗な室だ。まだ新しい縁なしの畳が二枚敷かれて、入口と反対の側の窓下になるあと一枚分は板敷になっている。その右の方の半分のところには、隅っこに水道栓と鉄製の洗面台とがあって、その下に箒と塵取と雑巾とが掛かっていて、雑巾桶らしいものが置いてある。左の方の半分は板が二枚になっていて、その真ん中にちょうど指をさしこむくらいの穴がある。何だろうと思って、その板をあげて見ると、一尺ほど下に人造石が敷いてあって、その真ん中に小さなとり手のついた長さ一尺ほどの細長い木の蓋が置いてある。それを取りのけるとプウンとデシンらしい強い臭いがする。便所だ。さっそく中へはいって小便をした。下には空っぽの桶が置いてあるらしくジャジャと音がする。板をもと通りに直して水道栓をひねって手を洗う。窓は背伸びしてようやく目のところが届く高さに、幅三尺、高さ四尺くらいについている。ガラス越しに見たそとは星一つない真暗な夜だった。室の四方は二尺くらいずつの間を置いた三寸角の柱の間に厚板が打ちつけられている。そして高い天井の上からは五燭の電燈が室じゅうをあかあかと照らしていた。
「これは上等だ。コンフォルテブル・エンド・コンヴェニエント・シンプル・ライフ!」
 と僕は独りごとを言いながら、室の左側の棚の下に横たえてある手拭掛けの棒に手拭をかけて、さっき着かえさせられて来た青い着物の青い紐の帯をしめ直して、床の中にもぐりこもうとした。
「がみんなはどこにいるんだろう。」
 僕は四、五日前の市民大会当日に拘引された十人ばかりの同志のことを思った。そして入口の戸の上の方についている「のぞき穴」からそっと廊下を見た。さっきもそう思いながら左右をきょろきょろ見て来た廊下だ。二間ばかり隔てた向う側にあの恐ろしい音を立てる閂様の白く磨ぎ澄まされた大きな鉄の錠を鼻にして、その上の「のぞき穴」を目にして、そして下の方の五寸四方ばかりの「食器口」の窓を口にした巨人の顔のような戸が、幾つも幾つも並んで見える。その目からは室の中からの光が薄暗い廊下にもれて、その曲りくねった鼻柱はきらきらと白光りしている。しかし、厚い三寸板の戸の内側を広く外側を細く削ったこの「のぞき穴」は、そとからうちを見るには便宜だろうが、うちからそとを窺くにはまずかったので、こんどは蹲がんで、そっと「食器口」の戸を爪で開けて見た。例の巨人の顔は前よりも多く、この建物の端から端までのがみんな見えた。しかしその二十幾つかの顔のどの目からも予期していた本当の人間の目は出て来なかった。そしてみんなこっちを睨んでいるように見える巨人の顔が少々薄気味悪くなり出した。
「もうみんな寝たんだろう。僕も寝よう。みんなのことはまたあしたのことだ。」
 僕はそっとまた爪で戸を閉めて、急いで寝床の中へもぐりこんだ。綿入一枚、襦袢一枚の寒さに慄えてもいたのだ。
 すると、室の右側の壁板に、
「コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。」
 と音がする。僕は飛びあがった。そしてやはり同じように、コツコツ、コツコツ、コツコツと握拳で板を叩いた、ロシアの同志が、獄中で、このノックで話をすることはかねて本で読んでいた。僕はきっと誰か同志が隣りの室にいて、僕に話しかけるのだと思った。
「あなたは大杉さんでしょう。」
 しかしその声は、聞き覚えのない、子供らしい声だった。
「え、そうです。君は?」
 僕もその声を真似た低い声で問い返した。知らない声の男だ。それだのに今はいって来たばかりの僕の名を知っている。僕はそれが不思議でならなかった。
「私は何でもないんですがね。ただお隣りから言いつかって来たんですよ。みんなが、あなたの来るのを毎日待っていたんですって、そいで、今新入りがあったもんですから、きっとあなただろうというんで、ちょっと聞いてくれって頼まれたんですよ。」
「君のお隣りの人って誰?」
 僕は事のますます意外なのに驚いた。
「○○さんという焼打事件の人なんですがね。その人と山口さんが向い同士で、毎日お湯や運動で一緒になるもんですから、あなたのことを山口さんに頼まれていたんです。」
「その山口とはちょっと話ができないかね。」
「え、少し待って下さい。お隣りへ話して見ますから。今ちょうど看守が休憩で出て行ったところなんですから。」
 しばらくすると、食器口を開けて見ろと言うので、急いで開けて見ると、向う側のちょうど前から三つ目の食器口に眼鏡をかけた山口の顔が半分見える。
「やあ、来たな。堺さんはどうした? 無事か?」
「無事だ。きのうちょっと警視庁へ呼ばれたが、何でもなかったようだ。」
「それや、よかった。ほかには、君のほかに誰か来たか。」
「いや、僕だけだ。」
 と僕は答えて、ひょいと顔を引っこめた山口を「おい、おい」とまた呼び出した。
「ほかのものはみんなどこにいるんだ、西川(光二郎)は?」
「シッ、シッ。」
 山口はちょっと顔を出して、こう警戒しながら、また顔を引っこましてしまった。コトンコトンと遠くの方から靴音がした。僕は急いでまた寝床の中へもぐりこんだ。靴音はつい枕許まで近く聞えて来たが、まただんだん遠くのもと来た方へ消えて行った。
「コツコツ、コツコツ、コツコツ。」
 とまた隣りで壁を叩く音がした。そしてこの隣りの男を仲介にして、その隣りの○○という男と、しばらく話しした。西川は他の二、三のものと二階に、そしてここにも僕と同じ側にもう一人いることが分った。
 僕はもう面白くて堪らなかった。きのうの夕方拘引されてから、初めての入獄をただ好奇心一ぱいにこんどはどんなところでどんな目に遭うのだろうとそれを楽しみに、警察から警視庁、警視庁から検事局、検事局から監獄と、一歩一歩引かれるままに引かれて来たのだが、これで十分に満足させられて、落ちつく先のきまった安易さや、仲間のものとすぐ目と鼻の間に接近している心強さなどで、一枚の布団に柏餅になって寝る窮屈さや寒さも忘れて、一、二度寝返りをしたかと思ううちにすぐに眠ってしまった。
 野口男三郎君[#「野口男三郎君」はゴシック体]
 翌日は雨が降って、そとへ出て運動ができないので、朝飯を済ますとすぐに、三、四人ずつ廊下で散歩させられた。
 僕は例の食器口を開けて、みんなが廊下の廻りを廻って歩くのを見ていた。山口と一緒のゆうべ隣りの男を仲介にして話した男とも目礼した。そしてもう一人の同志と一緒にいるのが、当時有名な事件だった寧斎殺しの野口男三郎ということは、その組が散歩に出るとすぐ隣りの男から知った。男三郎も、その連れから僕のことを聞いたと見えて、僕と顔を合せるとすぐに目礼した。
 男三郎とはこれが縁になって、その後二年余りして彼が死刑になるまでの間、碌に口もきいたことはないのだが大ぶ親しく交わった。その間に僕は、出たりはいったりして二、三度しばらくここに滞在し、その他にも巣鴨の既決監から余罪で幾度か裁判所へ引き出されるたびに一晩は必ずここに泊らされた。そしてことに既決囚になっている不自由な身の時には、ずいぶん男三郎の厄介になった。男三郎自身の手からあるいは雑役という看守の小使のようになって働いている囚人の手を経て、幾度か半紙やパンを例の食器口から受取った。僕もそとへ出たたびに何かの本を差入れてやった。
 男三郎は獄中の被告人仲間の間でもすこぶる不評判だった。典獄はじめいろんな役人どもにしきりに胡麻をすって、そのお蔭で大ぶ可愛がられて、死刑の執行が延び延びになっているのもそのためだなぞという話だった。面会所のそばの、自分の番の来るのを待っている間入れて置かれる、一室二尺四方ばかりの俗にシャモ箱という小さな板囲いの中には、「極悪男三郎速かに斬るべし」というような義憤の文句が、あちこちの壁に爪で書かれていた。
 僕なぞと親しくしたのも、一つは、自分を世間に吹聴して貰いたいからであったかも知れない。現にそんな意味の手紙を一、二度獄中で貰った。その連れになっていた同志にもいつもそんな意味のことを言っていたそうだ。
 要するにごく気の弱い男なんだ。その女の寧斎の娘のことや子供のことなぞを話す時には、いつも本当に涙ぐんでいた。子供の写真は片時も離したことがないと言って、一度それを見せたこともあった。また、これは自分が画いた女と子供の絵だと言って、雑誌の口絵にでもありそうな彩色した絵を見せたこともあった。どうしても何かの口絵をすき写ししたものに違いなかった。しかし絵具はどうして手に入れたろう。よほどの苦心をして何かから搾り取って寄せ集めでもしたものに違いない。が、何のためにそれだけの苦心をしたのだろう。しかもそれは、自分の女や子供の絵ではなく、まったく似てもつかない他人の顔なのだ。
 寧斎殺しの方は証拠不十分で無罪になったとか言って非常に喜んでいたことがあった。また、本当か嘘か知らないが、薬屋殺しの方は別に共犯者があってその男が手を下したのだが、うまく無事に助かっているので、その男が毎日の食事の差入れや弁護士の世話をしてくれているのだとも話していた。そしてある時なぞは、何かその男のことを非常に怒って、法廷ですっかり打ちあけてやるのだなどといきごんでいたこともあった。
 その後赤旗事件でまた未決監にはいった時、ある日そとの運動場で散歩していると、男三郎が二階の窓から顔を出して、半紙に何か書いたものを見せている、それには、
「ケンコウヲイノル。」
 と片仮名で大きく書いてあった。僕は黙って頷いて見せた。男三郎もいつものようににやにやと寂しそうに微笑みながら、二、三度お辞儀をするように頷いて、しばらく僕の方を見ていた。
 その翌日か、翌々日か、とうとう男三郎がやられたといううわさが獄中にひろがった。
 出歯亀君[#「出歯亀君」はゴシック体]
 出歯亀にもやはりここで会った。大して目立つほどの出歯でもなかったようだ。いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑いながら、ちょこちょこ走りに歩いていた。そしてみんなから、
「やい、出歯亀。」
 なぞとからかわれながら、やはりにこにこ笑っていた。刑のきまった時にも、
「やい、出歯亀、何年食った?」
 と看守に聞かれて、
「へえ、無期で。えへへへ。」
 と笑っていた。
 強盗殺人君[#「強盗殺人君」はゴシック体]
 それから、やはりここで、運動や湯の時に一緒になって親しい獄友になった三人の男がある。
 一人は以前にも強盗殺人で死刑の宣告を受けて、終身懲役に減刑されて北海道へやられている間に逃亡して、また強盗殺人で捕まって再び死刑の宣告を受けた四十幾つかの太った大男だった。もう一人は、やはり四十幾つかの上方者らしい優男で、これは紙幣偽造で京都から控訴か上告かして来ているのだった。そして最後のもう一人は、六十幾つかの白髪豊かな品のいい老人で、詐欺取財で僕よりも後にはいって来て、僕等の仲間にはいったのだった。
 強盗殺人君はよく北海道から逃亡した時の話をした。一カ月ばかり山奥にかくれて、手当り次第に木の芽だの根だのを食っていたのだそうだが、
「何だって食えないものはないよ、君。」
 と入監以来どうしても剃刀を当てさせないで生えるがままに生えさせている粗髯を撫でながら、小さな目をくるくるさせていた。
 そして、
「どうせ、いつ首を絞められるんだか分らないんだから……。」
 と言って、できるだけ我が儘を言って、少しでもそれが容れられないと荒れ狂うようにして乱暴した。湯もみなよりは長くはいった。運動も長くやった。お蔭様で僕等の組のものはいろいろと助かった。この男の前では、どんな鬼看守でも、急に仏様になった。看守が何か手荒らなことを囚人や被告人に言うかするかすれば、この男は仁王立ちになって、ほかの看守がなだめに来るまで怒鳴りつづけ暴ばれつづけた。その代り少しうまくおだてあげられると、猫のようにおとなしくなって、子供のように甘えていた。
 ある時なぞは、窓のそとを通る女看守が、その連れて来た女の被告人か拘留囚かがちょっと編笠をあげて男どものいる窓の方を見たとか言って、うしろから突きとばすようにして叱っているのを見つけた彼は、終日、
「伊藤の鬼婆あ、鬼婆あ、鬼婆あ!」
 と声をからして怒鳴りつづけていた。看守の名と言っては、誰一人のも覚えていない今、この伊藤という名だけは今でもまだ僕の耳に響き渡って聞える。何でも、もう大ぶ年をとった、背の高い女だった。その時には、ちょうど僕も、雑巾桶を踏台にして女どもの通るのを眺めていた。
 仲間のものにはごく人の好いこの強盗殺人君が、たった一度、紙幣偽造君を怒鳴りつけたことがある。偽造君は長い間満州地方で淫売屋をしていたのだそうだ。そしてそのたびたび変えた女房というのはみんな内地で身受けした芸者だったそうだ。偽造君はそれらの細君にもやはり商売をさせていたのだ。
「貴様はひどい奴だな、自分の女房に淫売をさせるなんて、この馬鹿ッ。」
 と殺人君は運動場の真ん中で、恐ろしい勢いで偽造君に食ってかかった。それをようやくのことで僕と詐欺老人とで和めすかした。
「俺は強盗もした。火つけもした。人殺しもした。しかし自分の女房に淫売をさせるなぞという悪いことはしたことがない。君はそれでちっとも悪いとは思わんのか。気持が悪いことはないのか。」
 ようやく静まった彼は、こんどはいつものように「君」と呼びかけて、偽造君におとなしく詰問した。
「いや、実際僕はちっとも悪い気もせず、また悪いとも思っちゃいない。まるで当り前のようにして今までそうやって来たんだ。それに僕の女房はいつでも一番たくさん儲けさしてくれたんだ。」
 偽造君はまだ蒼い顔をして、おずおずしながら、しかし正直に白状した。品はいいがしかしどこか助平らしい、いつも十六、七の女を妾にしているという詐欺老人は「アハハハ」と大きな口を開いて嬉しそうに笑った。殺人君は呆れた奴等だなというように憤然とした顔はしながら、それでもやはりしまいには詐欺老人と一緒になってにこにこ笑っていた。
 偽造君と詐欺老人とは仲善く一緒に歩いていた。二人は「花」の賭け金の額を自慢し合ったり、自分の犯罪のうまく行った時の儲け話などをしていた。偽造君は前にロシア紙幣の偽造をして、ずいぶん大儲けをしたことがあるんだそうだ。詐欺老人のは大抵印紙の消印を消して売るのらしかった。そして老人は、
「こんど出たら君がやったような写真で偽造をして見ようか。」
 と言いながら、しきりに偽造君に、写真でやる詳しい方法の説明を聞いていた。
 僕は折々差入れの卵やパンを殺人君に分けてやって、その無邪気な気焔を聞くのを楽しみにしていた。
 殺人君は宣告後三年か四年か無事でいて、たぶん証拠不十分でなかったのだろうと思うが、その後また死一等を減ぜられて北海道へやられたそうだ。

   巣鴨の巻

 ちょいと眼鏡の旦那[#「ちょいと眼鏡の旦那」はゴシック体]
 巣鴨行きと言えば、世間では、電車は別として多少気の触れた人間のことを指すが、僕等の間では監獄行きのことになる、だがこの僕等という奴等は世間からはずいぶん気違い扱いされているのだから、どっちにしても要するに同じことになるのだろうが。
 この巣鴨へは都合三度行った。と言っても実は二度で、最初の新聞紙条令違犯で食っているうちに、二度目の新聞紙条令違犯がきまって、前のが満期になるとすぐ引続いてあとのを勤めた。次が治安警察法違犯。

 たぶん鍛冶橋のだろうと思うが、古いいわゆる牢屋が打ち壊されて、石と煉瓦との新しい監獄がここにできた時、その古い牢屋の古木で古い牢屋そのままの建物が一つここの一隅に建てられた、という話だ。そしてこの建物は、めくら[#「めくら」に傍点]だとかびっこ[#「びっこ」に傍点]だとか、足腰のろくに利かない老人だとかの、片輪者や半病人をいれる半病監みたようなものになっていた。僕は二度ともこの建物の中の広い一室をあてがわれた。
 初め東京監獄からここに移されて、冷たい暗い一室の中にほうり込まれた時には、実は少々心細かった。春ももう夏近い暖かい太陽のぽかぽかと照る正午近い頃だった。それだのに、室へはいると急に冷たい空気にからだ[#「からだ」に傍点]じゅうをぞっと打たれる。四方の真白に塗った煉瓦の壁や、入口の大きな鉄板の扉は、見るからにひいやりとさせる。試みにそれに手をあてて見ると、そこからぞくぞくと冷たさが身にしみて来る。それに、窓が伸びあがってもとどかない、上の方に小さく開いているので、薄暗くて陰気だ。座席として板の間に敷いてある一枚のうすべり[#「うすべり」に傍点]までが、べとべとと湿っているような気がする。
 命ぜられたまま、扉に近く扉の方に向いてこのうすべりの上に坐っていたが、その扉は上下が鉄板でその間が鉄の格子になっていて、しかも僕の室のすぐ真ん前に看守がテーブルを控えて突っ立っているので、絶えず監視されているという不愉快が、その看守の大して意地悪そうでもない平凡な顔をまでも妙に不愉快にさせる。「石の家は人の心を冷たくする」というロシアの諺が思い出されて、ちょいちょい窃み見するようにして僕の方を見るその看守を、この男はきっと冷たい心を持っているに違いないなぞと思わせる。
 やがて、しばらく廊下でガタガタ騒がしい音がすると思っていると、看守が扉を開けて「出ろ」と言うので出て見ると、二十人ばかりの囚人が向い合って二列にコンクリートの上のうすべりに坐って、両手を膝に置いて膳に向っている。僕もその端に坐った。
「礼!」
 初めての僕にはちょっと何の意味だか分らない、大きな声の号令がかかった。みんなは膝に手を置いたままの形で首を下げた。僕はぼんやりしてみんなのすることを見ていた。
「喫飯!」
 また何のことだか分らない、ただぱあんというのだけがはっきりと響く、大きな声の号令がかかった。みんなは急いで茶碗と箸とを手に持った。そしてめいめい別な大きな茶碗の中に円錐形の大きな塊に盛りあげられている飯を、大急ぎに、餓鬼道の亡者というのはこんなものだろうと思われるように、掻きこみ始めた、どんぶりから茶碗へ飯を移す、それを口に掻きこむ、呑みこむ、また掻きこむ、呑みこむ。その早さは本当に文字通りの瞬く間だ。僕は呆気にとられて見ていた。
「何千何百何十番!」
 看守がまた大きな声で怒鳴った。僕はびっくりしてその方を向いた。
「何をぼんやりしているんだ。早く飯を食わんか。」
 看守は僕に怒鳴っているんだ。僕は自分の襟をうつむいて見て、その何千何百何十番というのが自分のきょうからの名前だということに初めて気がついた。そして急いで茶碗をとりあげた。が、僕がその円錐形の塊の五分の一くらいをようやくもぐもぐと飲みこんだ頃には、もうみんなは最初のようにその膝に手を置いてかしこまっていた。
 その後も始終見たことではあるが、囚人等の飯を食うのの早いのは実に驚くほどだ。まるで歯なぞというものは入用のないように、ただ掻きこんでは呑みこむ。
「どうも仕方がないんです。いくらからだに毒だからと言っても、どうしてもああなんです。しかしその言い分を聞くと、ずいぶん無茶なことではあるが、多少の同情はされるのです。よく噛んでいた日にゃ、すぐに消化れて腹が空って仕方がないと言うんですな。」
 坊さんは坊さんらしく、ある時教誨師とその話をしたら、眉を顰めながらにこにこしていた。
 僕はこの上もぐもぐやるのも、きちんと正座して待っているみんなに相済まず、自分でも少々きまりが悪いし、それにもみ[#「もみ」に傍点]沢山の南京米四分麦六分といういわゆる四分六飯に大ぶ閉口もしていたのだから、そのまま箸をおいた。
 みんなはめいめい[#「めいめい」に傍点]室に帰された。いい加減心細くなっていた僕は、この喫飯で、また例の好奇心満足主義に帰った。そして僕等の仲間達でその数年前に初めてここへはいった堺の話のように、はいってすぐ身体検査をされる時、裸体のまま四ん這いになって尻の穴をのぞかれたり、歩くのに両手を腰にしっかりとつけて決して振っちゃいけないというようなことが、今ではもう廃止されているのがかえって物足りなく思えた。
 その翌朝、僕は先きに言った半病人や片輪者の連中の中へ移された。今までいたところは、新入や、翌日放免になるものや、または懲罰的に独房監禁されたものなどの一時的にいる、特別の建物であった。
 石川三四郎と山口とはすでに、やはり新聞紙条令違犯で、その一室を占領していた。山口、石川、僕という順で、僕はその隣りの室へ入れられた。十畳か十二畳も敷けようと思われる広い室だ。前後が例の牢屋風の格子になっていて、後の格子には大きな障子がはまっていて、その障子を開けるとそとにはすぐそばに大きな桐の木が枝を広げていた。前の格子は、三尺ばかりの土間を隔てて、やはり障子と相対していた。この障子の向うにもやはり桐の木が見えた。室の左右は板戸を隔てて他と同じような室と続いていた。土間には看守がぶらぶらしている。
「はあ、この格子だな、例のは。」
 と僕は、土間に近い一隅にうすべりを一枚敷いて、その格子の眼の前に坐った時、堺の話を思い出した。堺が前にはいった時にもやはりここに入れられたのだ。そして堺は教科書事件の先生や役人と一緒に同居した。小人で閑居していればそんな不善はしないのだろうが、大勢でいると飛んだ不善な考えを起すものと見える。みんなはこの格子を女郎屋の格子に見立て、また髯っ面の自分等を髯女郎《インテレクチュアル・プロスティテュト》の洒落でもあるまいが、とにかく女郎に見立て、そして怪しからんことには看守をひやかし客に見立てて「もしもし眼鏡の旦那、ちょいとお寄りなさいな」というような悪ふざけをして遊んだそうな。
 僕もこの髯女郎になってからはすっかり気が軽くなった。室は明るい。そとはかなり自由に眺められる。障子は妙にアト・ホオムな感じを抱かせる。すぐ隣りには仲間がいる。看守も相手が片輪者や老人のことだから特に仏様を選んであるらしい。
 旧友に会う[#「旧友に会う」はゴシック体]
 その室へ移されてから一時間ばかりしてからのことだ。ふと、僕の室の前に突っ立って、しきりと僕の顔を見つめている囚人がある。僕も見覚えのある顔だと思いながら、ちょっと思い出せずにその顔を見ていた。
「やあ!」
 とようやく僕は思い出して声をかけた。
「うん、やっぱり君か。さっきから幾度も幾度も通るたんびに、どうも似た顔だと思って声をかけようと思ったんだが、一体どうしてこんなところへ来たんだ。」
 その男は悲痛な顔をして不思議そうに尋ねた。しかし僕としては、僕自身がこんなところへ来るのは少しも不思議なことではなく、かえってこんなところでその男と会う方がよほど不思議であったのだ。
「僕のは新聞のことなんだが、君こそどうして来たんだ。」
「いや、実に面目次第もない。君はいよいよ本物になったのだろうけど。」
 その男は自分の罪名を聞かれると、急に真赤になって、こう言いながら、
「失敬、また会おう。」
 と逃げるようにして行ってしまった。
 彼と僕とはかつて同じような理由で陸軍の幼年学校を退学させられた仲間だった。彼は仙台の幼年校、僕は名古屋の幼年校ではあったが、もう半年ばかりで卒業という時になって、ほとんど同時に退校を命ぜられた。そして二人ともすぐ東京に出て来て偶然出遇った。彼にはなお一緒に仙台を逐い出された二人の仲間があった。その一人は小学校以来の僕の幼な友達だった。かくして四人の幼年校落武者が落ち合った。そしてそこへまた大阪や東京の落武者が寄り集まって、八、九人の仲間ができた。みんなは退校処分という恥辱を雪ぐために、互いに助け合ってうんと勉強する誓いを立てた。みんなはすぐにあちこちの中学校の五年へはいった。が、彼ともう一人の仲間とが中途で誓いを破って遊びを始めた。みんなは憤慨して数回忠告した。そしてついに絶交を宣告した。翌年他の仲間のみんなはそれぞれ専門学校の入学試験に通過した。しかしその二人だけはどこでどうしているのか分らなかった。みんなは絶交を悔いていた。
 ちょうどそれから四、五年目になるのだ。僕の入獄は彼から見れば「いよいよ本物になったのだ」ろうが、彼自身の入獄は当時の絶交と思い合して「実に面目次第も」なかったことに違いない。しかし僕としては、僕等が彼に申渡したその絶交が、今になってなおさらに悔いられるのであった。
 彼は早稲田辺で、ある不良少年団の団長みたようなことをしていたのだそうだ。そしてその団員の強盗というほどでもないほんの悪戯から、彼は強盗教唆という恐ろしい罪名が負わせられたのだそうだ。そしてかつて仙台陸軍地方幼年学校の一秀才であった彼は、今は巣鴨監獄で、他の囚人に食事を運んだり仕事の材料を運んだりする雑役を勤めているのであった。
 彼は僕が二度目に来て満期近くなるまで、この建物の中に雑役をしていた。どこでどうして手に入れて来るのか知らないが、ある時なぞは、ほとんど毎日のように氷砂糖の塊を持って来てくれた。そして毎月一度面会に来る女房をどこでどうして知っているのか、「君、奥さんが来てるよ、もうすぐ看守が呼びに来るだろうから用意して待っていたまえ」なぞと知らしてくれたりした。
 ある日急に彼の姿が見えなくなった、その日の夜ある看守の手を経て、「あす仮出獄で出る、君が出ればすぐ会いに行く」と言った紙きれを受取ったが、それっきり彼とはまだ一度も会わない。
 二十五年目の出獄[#「二十五年目の出獄」はゴシック体]
 この男と一緒にやはり雑役をしていた、もう六十を越した一老人があった。やはり僕が二度目の満期になる少し前に放免になったのだが、何でも二十五年目とか六年目とかで日の目を見るのだと言っていた。
「電車なんてものはどんなものだか、いくら話に聞いても考えても分りませんや。何しろ電燈だって初めてここで知ったんですからな。」
 ある時彼は夢見るような目つきで電燈を見あげながら言った。
 看守がそばにいて、一緒になって話をする時には、彼はよくいろんなことを話した。しかしそうでない時には、雑役としての用以外には、ほとんど一言もきかない。自分の監房にいる時でもやはりそうだ。看守のすき[#「すき」に傍点]を窺ってはいろんな悪戯やお饒舌をする時にも、彼だけは一人黙ってふり仮名つきの何かの本を読んでいた。話しかけられても返事をしない。雑役としての用をする時にも、よほど意地の悪い看守よりも、もっと一刻者だった。
「おい君、こんなきたない着物じゃしょうがないじゃないか。もっと新しいのを持って来てくれたまえ。」
 僕は一度この老人にその持って来た着物の不足を言った。
「贅沢言うな。」
 老人はこう言い棄てて隣りの室の方へ行った。
「おい、君、君!」
 と僕は少し大きな声で呼び帰そうとした。看守はそれを聞きつけてやって来た。そして一応僕の苦情を聞いて、
「新しいのを一枚持って来てやれ。」
 と老人に言いつけた。老人はぶつくさ言いながらまた取りに行った。
 これはこの老人の一刻者らしいいい例ではないが、とにかくすべてがこの調子だった。他の囚人の苦情なぞはいっさい取りいれない。毎日半枚ずつ配ってくれる落し紙ですら、腹工合が悪いからもう一枚くれと言っても、決して余計にくれたことはない。時には、いいから何とかしてやれなどという看守に、獄則を楯にして食ってかかることすらあったが、この獄則を守る点では、先きにも言ったようにまるで裏表のない、獄則そのものの権化と言ってもいいくらいだった。数年前の規則そのままに、歩く時には手を少しも振らないように、五本の指をぴんとのばして腰にしっかりと押しつけていた。賞標の白い四角な布も三つほど腕につけていた。
 最初殺人で死刑の宣告を受けたのを、終身に減刑され、その後また何かの機会に減刑また減刑されて、ついに放免になったのだそうだ。一刻者は最初からの、しかも正直者というほどの意味であったらしいが、入獄以来その一刻から出た犯罪を後悔するとともに、その一刻をただ獄則厳守のことにのみ集中させて、ますます妙な一刻者になったのらしい。
 びっこの少年[#「びっこの少年」はゴシック体]
 隣りの室には十人ばかり片輪者が同居していた。その中に、七十幾つかの老人と、森の中にでもいればどうしてもチンパンジイとしか思えないような顔つきの若い大男と、尻が妙に出っぱってびっこ[#「びっこ」に傍点]をひいて歩く少年とがいた。チンパンジイは盲というほどでもないが両眼ともよく見えなかったらしい。高い眉の下にひどく窪んだ細い眼をいつもしょぼしょぼさせていた。この男は僕がいる間に一度ちょっと出てまたすぐはいって来た。みんなほんのこそこそ盗棒らしかった。
 この少年はひょうきん者で、一日みんなを笑わせては騒いでいた。誰かがブッと屁を放る。するとこの少年は、「うん、うん、よしよし」なぞと、赤ん坊でもなだめすかすようなことを言う。一日に幾度とちょっとは数え切れないほどみんなはよく屁をひった。そしてそのたんびにこの少年はこんなことを言ってはみんなを笑わしていた。隣りで聞いている僕も時々吹き出した。
 仕事がいやになるとみんなはよく便所へはいって一と休みした。
「いつまで便所にはいってるんだ。」
 時々は看守も二、三度廻って来てまだ同じ人間が便所にしゃがんでいるので小言を言う。すると少年は「どうも難産で」と言いながら「うん、うん」と唸って見せる。みんなはどっと笑う。看守も仕方なしに「いい加減にして出ろ」と言い棄てて行ってしまう。
 この隣りの笑い声で、どれほど僕は、長い日の無聊を慰められたか知れない。
 獄中からの手紙[#「獄中からの手紙」はゴシック体]
 僕の生活は、毎朝起きるとまずこの広い室のふき掃除をして、あとは一日机に向って読み書き考えてさえいればいいのだった。
 本は辞書の外五、六冊ずつ手許に置くことができた。そしてそれを毎週一回新しいのと代えて貰うことができた。ペンとインクとノートとは特別に差入れを許された。
 その頃の生活を当時の気持そのままに見るために、獄中から出した手紙の二、三を次に採録して見る。いずれも最初の時のものだ。
「暑くなったね。それでも僕等のいる十一監というところは獄中で一番涼しいところなのだそうだ。煉瓦の壁、鉄板の扉、三尺の窓の他の監房とは違って、ちょうど室の東西がすべて三寸角の柱の格子になっていて、その上両面とも直接に外界に接しているのだから、風さえあればともかくも涼しいわけだ。それに十二畳ばかりの広い室を独占して、八畳づりの蚊帳の中に起きて見つ寝て見つなどと古く洒落れているのだもの。平民の子としてはむしろ贅沢な住居だ。着物もことに新しいのを二枚もらって、その一枚を寝巻にしている。時に洗濯もしてもらう。
「老子の最後から二章目の章の終りに、甘其食、美其衣、安其所、楽其俗、隣国相望、鶏犬声相聞、民至老死不相往来という、その消極的無政府の社会が描かれてある。最初の一字の甘しとしただけがいささか覚束ないように思うけれど、まず僕等の今の生活と言えば、まさにこんなものだろうか。妙なもので、この頃は監獄にいるのだという意識が、ある特別の場合の外はほとんど無くなったように思う。」(堺宛)

 この蚊帳で思い出すが、ある夜、暑苦しくて眠れないので、土間をぶらぶらしている看守に話しかけた。
「少しくらい暑くたって君等はいいよ。僕はさっきから蚊帳の中に寝ている君等を見ながらつくづく思ったんだ。こうして格子を間にして君等の方を見ていると、実際どっちが本当の囚人だか分らなくなって来るよ。」
 看守は笑いながらではあるが、しみじみとこぼして言った。

 それからしばらくして幸徳に宛てた手紙を出した。
「暑かった夏も過ぎた。朝夕は涼しすぎるほどになった。そして僕は『少し肥えたようだね』などと看守君にからかわれている。
「この頃読書をするのにはなはだ面白いことがある。本を読む。バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナーキストでも、まず巻頭には天文を述べてある。次に動植物を説いてある。そして最後に人生社会を論じている。やがて読書にあきる。顔をあげてそとを眺める。まず目にはいるものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、さらに下っては向うの監舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのことをそのまま実地に復習するようなものだ。そして僕は、僕の自然に対する知識のはなはだ浅いのに、いつもいつも恥じ入る。これからは大いにこの自然を研究して見ようと思う。
「読めば読むほど、考えれば考えるほどどうしてもこの自然は論理だ。論理は自然の中に完全に実現されている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現せられねばならぬ。
「僕はまた、この自然に対する研究心とともに、人類学や人間史に強く僕の心を引かれて来た。こんな風に、一方にはそれからそれへと泉のように学究心が湧いて来ると同時に、(中略)
「兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したらすぐ多年宿望のクロの自伝をやりたいと思っている。今その熟読中だ。」

 それからもう出獄近くなって山川に宛てた手紙を出した。その中に法廷に出る云々というのは、あとの新聞紙条令違犯の公判の時のことだ。
「きのう東京監獄から帰って来た。まず監房にはいって机の前に坐る。本当にうちへ帰ったような気がする。
「僕は法廷に出るのが大嫌いだ。ことに裁判官と問答するのはいやでいやで堪らぬ。いっそのこと、ロシアのように裁判しないですぐシベリアへ逐いやるというようなのが、かえって赤裸々で面白いようにも思う。貴婦人よりは淫売婦の方がいい。
「裁判が済めばまず東京監獄へ送られる。門をはいるや否や、いつも僕は南京虫のことを思って戦慄する。一夜のうちに少なくとも二、三十カ所は噛まれるのだもの、痛くてかゆくて、寸時も眠れるものじゃない。僕が二、三日して巣鴨に帰ると、獄友諸君からしきりに痩せた痩せたというお見舞いを受ける。
「ただ東京監獄で面白かったのは鳩だ。ちょうど飯頃になると、窓のそとでばたばた羽ばたきをさせながら、妙な声をして呼び立てる。試みに飯を一かたまり投ってやる。十数羽の鳩があわただしく下りて来て、瞬く間に平らげてしまう。また投ってやる。面白いもんだから幾度も幾度も続けざまに投ってやる。飯をみな投ってしまって汁ばかりで朝飯を済ましたこともある、あとで腹がへって困ったが、あんな面白いことはなかった。
「巣鴨に帰る。大変早かったね、裁判はどうだった。などと看守君はいろいろ心配して尋ねてくれる。何だか[#「何だか」は底本では「何だが」と誤記]気も落ちつく。本当にうちへ帰ったような気がする。
「しかしこのうちにいるのも、もうわずかの間となった。久しいイナクティブな生活にもあきた。早く出たい。そして大いに活動したい、この活動については大ぶ考えたこともある。決心したこともある。出たらゆっくり諸君と語ろう。同志諸君によろしく。」
 鬼界ケ島の俊寛[#「鬼界ケ島の俊寛」はゴシック体]
 出て一カ月半ばかりして、こんどは堺や山川やその他三人の仲間と一緒に、例の屋上演説事件でまた入れられた。既決になると、その他三人というのが東京監獄に残されて、堺と山川と僕とが巣鴨へ送られた。
「やあ、また来たな。」
 と看守や獄友諸君は歓迎してくれる。
「またやられたよ。しかしこんどは、まだ碌に監獄の気の抜けないうちに来たのだから、万事に馴れていて好都合だ。」
 僕は当時われわれの機関であった『日本平民新聞』の編集者で、その後幸徳と一緒に死刑となった森近運平に宛てて、こんな冒頭の手紙を書いて送った。
 山口は何かの病気で病監にはいっていた。山川はたしかほかの建物へやられたように思う。石川、僕、堺という順で、相ならんでいた。
 堺はもう格子につかまって「ちょいとお髯の旦那」をやる当年の勇気も無くなっていたが、石川と僕とは盛んに隣り合っていたずらをした。運動の時にそとで釘を拾って来て、二人の室の間の壁に穴をあけた。本やノートに飽きるとその穴から呼び出しをかける。石川が話している間は僕は耳をあてている。僕が話をする間は石川が耳をあてる。ところがこれがなかなかうまく行かない。時々口をあて合ったり耳をあて合ったりすることがある。どうしたのかと思って、耳をはずしてのぞいて見ると、向うでも耳をあてて待っている。ちょっと議論めいたことになると、お互いに「こんどは俺がしゃべるんだからお前は聞け」と言い合って、小さな穴を通して唾を飛ばし合う。時とすると「しばらくそこで見ておれ」と言って、室の真ん中へ行って踊って見せたりする。
 こんなことをしてふざけながらも、石川は二千枚近い『西洋社会運動史』を書いていた。これは後に出版されて発売禁止になった。堺と僕とは当時堺の編集で『平民科学』という題で出していた叢書を翻訳していた。山川もやはりそれをやっていた。
 そしてちょうどこの翻訳が一冊ずつできあがった頃に堺と山川と僕とは満期になった。
「可哀想だがちょうど鬼界ケ島の俊寛という格好だな。しかしもう少しだ。辛抱しろ。」
 堺と僕とは石川にこう言いながら、
「おい、俊寛、左様なら。」
 とからかってその建物を出た。

   千葉の巻

 うんと鰯が食えるぜ[#「うんと鰯が食えるぜ」はゴシック体]
 が、また半年も経つか経たぬ間に、こんどは例の赤旗事件で官吏抗拒治安警察法違犯という念入りの罪名で、その事件の現場から東京監獄へ送られた。同勢十二名、内女四名、堺、山川、荒畑なぞもこの中にいた。女では、巡査の証言のまずかったためにうまく無罪にはなったが、後幸徳と一緒に雑誌を創めて新聞紙法違犯に問われ、さらにまた幸徳等と一緒に死刑になった、かの菅野須賀子もいた。
 と同時に、二年前に保釈出獄した電車事件の連中も、一審で無罪になったのを検事控訴の二審でまた無罪になり、さらに検事の上告で大審院から仙台控訴院に再審を命ぜられ、そこで初めて有罪になったのをこんどはこちらから上告して大審院で審議中であったのだが、急に保釈を取消されてやはり東京監獄に入監された。この連中が西川、山口などの七、八名。僕はこの両方の事件に跨がっていた。
 東京監獄は仲間で大にぎやかになった。しかし、やがて女を除くみんなが有罪にきまった時、東京監獄ではこれだけの人数を一人一人独房に置くだけの余裕も設備もなかった。僕等は一種の悪性伝染病患者のようなもので、他の囚人と一緒に同居させることもできず、また仲間同士を一緒に置くことはさらにその病毒を猛烈にする恐れがある。そこでみんなは、最新式の建築と設備とをもって模範監獄の称のある、日本では唯一の独房制度の千葉監獄に移されることになった。
 千葉は東京に較べて冬は温度が五度高いというのに、監獄はその千葉の町よりももう五度高いというほどの、そして夏もそれに相応して冷しい、千葉北方郊外の高燥な好位置に建てられていた。
「あれがみんなの行くところなんだ。」
 汽車が千葉近くなった時、輸送指揮官の看守長が、ちょうど甥どもを初めて自分のうちへ連れて行く伯父さんのような調子で、(実際この看守長は最後まで僕等にはいい伯父さんだった)いろいろその自分のうちの自慢をしながら、左側の窓からそとを指さして言った。みんなは頸をのばして見た。遙か向うに、小春日和の秋の陽を受けて赤煉瓦の高い塀をまわりに燦然として輝く輪喚の美が見えた。何もかもあの着物と同じ柿色に塗りたてた建物の色彩は、雨の日や曇った日には妙に陰欝な感じを起させるが、陽を受けると鮮やかな軽快な心持を抱かせる。
「鰯がうんと食えるそうだぜ。」
 僕はすぐそばにいた荒畑に、きのう雑役の囚人から聞いたそのままを受け売りした。幾回かの入獄に、僕等はまだ、塩鱈と塩鮭との外の何等の魚類をも口にしたことがなかったのだ。で、この話を聞いた僕には、それが唯一の楽しい期待になっていたのだ。
「それやいいな。早く行って食いたいな。」
 荒畑も、そばにいた二、三人も、嬉しそうに微笑んだ。
 下駄の緒の心造り[#「下駄の緒の心造り」はゴシック体]
 着いて見ると、なるほど建物は新築したばかりでてかてか[#「てかてか」に傍点]光っている。室は四畳半敷くらいの、南向きの、明るい小綺麗な室だ。何よりもまず窓が低くて大きい。東京のちょっとした病院の室よりもよほど気持がいい。
 が、第一にまず役人の利口でないのに驚かされた。着くとすぐ、みんな一列にならべさせられて、受持の看守部長の訓示を受けた。
「こんどはみんな刑期が長いのだから、よく獄則を守って、二年のものは一年、一年のものは半年で出られるように、自分で心掛けるんだ。」
 というような意味のことを繰返し繰返し聞かされた。僕等はあざ笑った。こんなだまし[#「だまし」に傍点]が僕等にきくと思っているんだ。また、よし本当に好意でそう言ってくれたものとしても、僕等に仮出獄なぞといういわゆる恩典があるものと思うのもあまりに間が抜けている。まるで僕等を知らないんだ。それだけならまだいい。この訓示が済んで、一行八人(電車事件の方は一足先きに来た)が別々に隣り合った室へ入れられた時、こんどは受持の看守が、
「つまらんことで大ぶ食ったもんだな。一度はいると大ぶ貰えるという話だが、こんどはみんな幾らずつ貰ったんだ。」
 という情けないお言葉だ。政党か何かの壮士扱いだ。さすがの堺を始めみんなは顔見合せて苦笑するの外はなかった。ただ、ふだんは神経質に爪ばかり噛っているように見えたのが、入獄以来その快活な半面をしきりに発揮し出した荒畑が、「アハハア」と大きな声を出して笑った。看守はけげんな顔をしていた。
 上典獄を始め下看守に至るまでが、ほとんどすべてこの調子なのだからやり切れない。
 それに、第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と胡麻塩、と来たのだからますます堪らない。
 加うるにこんどは今までの禁錮と違って、懲役と言うのだから、一定の仕事を課せられる。しかもその仕事が、東京監獄ではごく楽で綺麗な経木あみであったのが、南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の心をなうのであった。手があれるだけならまだしも下手をやると赤むけになる。埃が出る。かなり骨が折れる。それを昼の間十時間くらいやって、その上にまた夜業を二、三時間やらされる。初めの一日でうんざりしてしまった。
 三度減食を食う[#「三度減食を食う」はゴシック体]
 三日目か四日目のことだ。毎日のこの仕事に疲れ果てて、少しでも仕事の手を休めていると、うとうとと眠ってしまう。坐りながら幾度か眠っては覚め、眠っては覚めしているうちに、とうとう例の胡麻塩の昼飯後の三十分か一時間かの休憩時間に、いつの間にか居眠りのまま横に倒れてしまった。
「こら、起きろ!」
 という声にびっくりして目を覚ますと、僕は自分のそばに畳んである布団の上に半身を横たえて寝ていた。
「横着な奴だ。はいる早々もう真っ昼間から寝たりなんぞしやがって、貴様は監獄の規則なんぞ何とも思ってないんだな。」
 看守は、貴様のような壮士が何だという腹を見せて、威丈高になって怒鳴りつづけた。
 しばらくして典獄室へ呼びつけられた。僕はみちみち、はなはだ意気地のないことだが馴れない仕事に疲れてつい、とありのままの弁解をするつもりで行った。ところが、典獄室にはいって一礼するかしないうちに、
「貴様は社会主義者だな。それで監獄の規則まで無視しようと言うんだろう。減食三日を仰せつける。以後獄則を犯して見ろ、減食ぐらいじゃないぞ。」
 と恐ろしい勢いで怒鳴りつけられた。
「ええ、何でもどうぞ。」
 と僕は、外国語学校の一学友の、海軍中将だとかいう親爺の、有名な気短か屋で怒鳴り屋だというのを思出しながら、(典獄はこの学友の親爺と言ってもいいくらいによく似ていた)そのせりふめいた怒鳴り方の可笑しさを噛み殺して答えた。
「何に!」
 と典獄は椅子の上に上半身をのばして正面を切ったが、こちらが黙って笑顔をしているので、
「もういいから連れて帰れ。」
 と、こんどは僕のうしろに不動の姿勢を取って突っ立っている看守に怒鳴りつけた。僕は幼年学校仕込みの「廻れ右」をわざと角々しくやって、典獄室を出た。これは幼年校時代の叱られる時のいつもの癖であったが、この時は皮肉でも何でもなく、思わずこの古い癖が出たのだった。

 幼年学校時代の癖と言えば、もう一つ、妙な癖をやはりこの監獄で発見した。
 これはその後よほど経ってからのことだが、やはり何か叱られて、看守長室へ呼ばれたことがあった。その看守長はせいの低い小太りで猫背の、濃い口髯の、そしていつも顔中髯だらけにしてその中から意地の悪そうな細い眼を光らしている男だった。僕等はこの男を「熊」と呼んでいた。
 はいると、いきなり、
「そこへ坐れ。」
 と顎で指さした。見ると、足元にはうすべりが二枚に折って敷かれている。僕は黙って知らん顔をしていた。煉瓦造りの西洋館の中で、椅子テーブルを置いて、しかも向うは靴をはいてその椅子に腰掛けながら、こちらには土下座をしろと言うのだ。僕はほとんどあきれ返った。
「なぜ坐らんか。」
「いやだから坐らない。」
「何がいやだ。」
「立っていたって話ができるじゃないか。」
「理窟は言わんでもいいから坐れ。」
「君も坐るんなら僕も坐ろう。」
 というような押問答の末に、さっきからその濃い眉をびくびくさせていた看守長は、決然として起ちあがった。
「命令だ! 坐れ!」
 僕はこの命令という声が僕の耳をつんざいた時に、その瞬間に、僕のからだ全体が「ハッ」と恐入る何ものかに打たれたことを感じた。そしてそれを感じると同時に、その瞬間の僕自身に対する反抗心がむらむらと起って来た。
「命令が何だ。坐らせるなら坐らせて見ろ。」
 さっきまでの冷笑的の態度が急に挑戦の態度に変った。そしてこの時もやはり、前の典獄室におけると同じように、そのまま自分の室へ帰された。叱られる筈のことには一言も及ばないうちに。
 この命令だという一言に縮みあがるのは、数千年の奴隷生活に馴れた遺伝のせいもあろうが、僕にはやはり大部分は幼年校時代の精神的遺物であろうと思われる。
 僕は元来ごく弱い人間だ。もし強そうに見えることがあれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられるほど自分の見え坊を傷つけられることはない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分にも見せたい。強がりたい。時とするとこの見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする。
 こんど犯則があれば減食ぐらいでは済まんぞという筈のが、その後三日間と五日間との二度減食処分を受けた。一度は荒畑と運動場で話したのを見つかって二人ともやられた。もう一度のは何をしたのだったか今ちょっと思い出せない。
 荒畑も僕と同じようによく叱られていたが、ある晩あまり月がいいので窓下へ行って眺めていると、
「そんなところで何をぼんやりしている。……何に、月を見てるのだ? 月なんぞ見て何になる? 馬鹿!」
 とやられたと言って、あとでその話をして大笑いをしたことがあった。
 もう半年はいっていたい[#「もう半年はいっていたい」はゴシック体]
 要するに僕等は監獄にはいってこれほどの扱いを受けるのは初めてだった。しかし僕等は、先方の扱い如何にかかわらず、一年なり二年なりの長い刑期を何とかして僕等自身にもっとも有益に送らなければならない。
 僕はその方法について二週間ばかり頭を悩ました。方法と言っても読書と思索の外にはない。要はただその読書と思索の方向をきめることだ。
 元来僕は一犯一語という原則を立てていた。それは一犯ごとに一外国語をやるという意味だ。最初の未決監の時にはエスペラントをやった。次の巣鴨ではイタリア語をやった。二度目の巣鴨ではドイツ語をちっと噛った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。で、刑期も長いことだから、これがいい加減ものになったら、次にはロシア語をやって見よう。そして出るまでにはスペイン語もちっと噛って見たい。とまずきめた。今までの経験によると、ほぼ三カ月目に初歩を終えて、六カ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年ずつとしてもこれだけはやられよう。午前中は語学の時間ときめる。
 こう言うと、僕は大ぶえらい博言学者のように聞えるが、実際またこの予定通りにやり果して大威張りで出て来たのだが、その後すっかり怠けかつこの監獄学校へも行かなくなったので、今ではまるで何もかも片なしになってしまった。
 それから、以前から社会学を自分の専門にしたい希望があったので、それをこの二カ年半にやや本物にしたいときめた。が、それも今までの社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みでやりたい。それには、まず社会を組織する人間の根本的性質を知るために、生物学の大体に通じたい。次に、人間が人間としての社会生活を営んで来た径路を知るために、人類学ことに比較人類学に進みたい。そして後に、この二つの科学の上に築かれた社会学に到達して見たい。と今考えるとまことにお恥かしい次第だが、ほんの素人考えに考えた。それには、あの本を読みたい、この本を読みたい、と数え立ててそれを読みあげる日数を算えて見ると、どうしても二カ年半では足りない。少なくとももう半年は欲しい。
 こうなると、今までずいぶん長いと思っていた二カ年半が急に物足りなくなって、どうかしてもう半年増やして貰えないものかなあ、などと本気で考えるようになる。
 仕事はある。しかしそれは馴れさえすれば何とでもなる。一日幾百足という規定ではあるが、その半分か、四分の一か、あるいはもっと少なくなってもいい。何と言われてもこれ以上はできませんと頑張ればいい。みんなで相談してひそかにある程度にきめればさらに妙だ。現にこの相談はほとんど最初から、自然にできあがっている。とにかく、できるだけ仕事の時間を盗んで、勉強することだ。
 こうきめて以来は滅茶苦茶に本を読んだ。仕事の方は馴れるに従ってますます早くやれるようになる。それに、下等の南京麻ではない上等の日本麻をやらしてくれる。いよいよますます仕事はしやすい。しかし仕事の分量は最初から少しも増やさない。ただもう看守のすきを窺っては本を読む。
 かくして僕は、かつて貪るようにして掻き集めた主義の知識をほとんどまったく投げ棄てて、自分の頭の最初からの改造を企てた。
 鱈腹食う夢を見て下痢をする[#「鱈腹食う夢を見て下痢をする」はゴシック体]
 一方に学究心が盛んになるとともに、僕は僕の食欲の昂進、というよりもむしろ食いっ気のあまりにさもしい意地きたなさに驚かされた。
 最初の東京監獄の時は弁当の差入れがあるのだから別としても、その次の巣鴨の時にも、二度目の巣鴨の時にも、刑期の短かかったせいかそれほどでもなかったが、こんどは自分ながら呆れるほどにそれがひどくなった。好き嫌いのずいぶんはげしかったのが、何でも口に入れるようになったのは結構だとしても、以前には必ず半分か三分の一か残ったあのまずかった四分六の飯を本当に文字通り一粒も残さずに平らげてしまう。おはち[#「おはち」に傍点]の隅にくっついているのも、おしゃも[#「おしゃも」に傍点]にくっついているのも、落ちこぼれたのさえも、一々丁寧にほじくり取り、撫で取り、拾い取る。ちゃんと型に入れて、一食何合何勺ときまっている飯の塊を、きょうのは大きいとか小さいとか言ってひそかに喜びまたは呟く。看守が汁をよそってくれるのに、ひしゃく[#「ひしゃく」に傍点]を桶の底にガタガタあてるかどうかを、耳をそばだて眼を円くして注意する。底にあてれば、はいる実が多いのだ。それも茶碗を食器箱の蓋に乗せてよそって貰うのだが、その蓋の中にこぼれた汁も、蓋を傾けてすすってしまう。特に残汁《ざんじる》と言って、一と廻り廻った残りをまた順番によそって歩くことがある。その番の来るのがどれほど待ち遠しいか知れない。
 小説なぞを読んでいて、何か御馳走の話が出かかって来れば、急いでページをはぐって、その話を飛ばしてしまう。とても読むには堪えないのだ。そうかと思うと、本を読んでいる時でも、何か考えている時にでも、またはぼんやりしている時でも、何でもないことがふと食物と連想される。
 折々何か食う夢を見る。堺もよくその夢を見たそうだが、堺のはいつも山海の珍味といったような御馳走が現れて、いざ箸をとろうとすると何かの故障で食えなくなるのだそうだ。堺はひどくそれを残念がっていた。しかるに僕のは、しるこ屋の前を通る、いろんな色の餅菓子やあんころ餅などが店にならべてある、堪らなくなって飛びこむ、片っ端から平らげて行く、満腹どころかのど[#「のど」に傍点]にまでもつめこんでうんうん苦しがる、というようなすこぶる下等な夢だ。そして妙なことには、苦しがって散々もがいたあげく、ふと眼をさますと腹工合が変だ。急いで便所へ行くと一瀉千里の勢いで跳ね飛ばす。そうでなくても翌朝起きてからきっと下痢をする。まるで嘘のような話だ。
 しからば色欲の方はどうかと言うに、これまたすこぶる妙だ。先きの東京監獄や巣鴨監獄では時々妙な気も起きたが、ここへ来てからまるでそんなことがない。
 僕は子供の時には、性欲を絶った仙人とか高僧とかいうものは非常に偉いものと思っていたが、やや長じてからは、そんな人間があるとすれば老耄の廃人くらいに考えていた。しかしそれはどちらも誤っていた。僕のような夢にまで鱈腹食って覚めてから下痢するというほどの浅ましい凡夫でも、時と場合とによれば、境遇次第で、何の苦心も修養も煩悶もなく、ただちに聖人君子となれるのだ。
 ある夜などは、自分が不能者になったのかと思って少々心配し出して、わざといろんな場面を回想もしくは想像して見た。が、ついにその回想や想像が一つとして生きて来ない。僕はほとんど絶望した。
 危く大逆事件に引込まれようとする[#「危く大逆事件に引込まれようとする」はゴシック体]
 一カ年の刑期のものはとうに出た。一カ年半のものも出た。二カ年の堺と山川ももう残り少なくなった。そこへ突然検事が来て、今お前等の仲間の間にある大事件が起っているが知っているかというお尋ねだ。何か途方もない大きな事件が起きて、幸徳を始め大勢拘引されたということは薄々聞いていた。その知っただけのことを、またどうしてそれを知ったのか、監獄の取締上一応聞いて置きたいと言うのだ。うろん臭いのでいい加減に答えて置いた。
 すると数日経って、不意に、恐ろしく厳重な警戒の下に東京監獄へ送られた。そして検事局へ呼び出されて、こんどは本式に、いわゆる大逆事件との関係を取調べられた。
「この事件は四、五年前からの計画のものだ。お前等が知らんという筈はない。現にお前等もその計画に加わっていたということは、他の被告等の自白によっても明らかだ。」とくどくどと嚇かされたりすかされたりするのだが、何分何にも知らないことはやはり知らないと答えるより外はない。
 監獄では典獄を始めどの看守でも、しきりに、気の毒そうに同情してくれる。
「こんな事件にひっかかったんでは、とても助かりっこはない。本当に気の毒だな。」
 と明らさまに慰めてくれる看守すらある。みんなで僕等を大逆事件の共犯者扱いするのだ。
 最初はそれを少々可笑しく思っていたが、この同情が重なるに従ってだんだん不安になり出して来た。監獄の役人がこれほどまで思っているのだから、あるいは実際検事局で僕等をその共犯者にしてしまってあるのじゃあるまいか、と疑われ出して来た。まさかと打消しては見るが、どうしても打ち消し得ないあるものが看守等の顔色に見える。そうなったところで仕方がない、とあきらめても見るが、そうなったのかならぬのか明らかにならぬうちは、やはり不安になる。
 やがて堺は無事に満期出獄した。それでこの不安は大部分おさまった。しかしまだ役人等の僕に対する態度には少しも変りがない。僕自身ももう満期が近づいたのだから、出獄の準備をしなければならぬと思って、二カ月に一回ずつしか許されない手紙や面会の臨時を願い出ても、典獄や看守長はそんなことをしても無駄だと言わんばかりのことを言って、一向とり合ってくれない。ただ気の毒そうな顔色ばかり見せている。どうかすると僕一人があの中に入れられるのかな、と疑えば疑えないこともない。が、その後少しも検事の調べがないのだから、とまたそれを打消しても見る。
 その間に僕は大逆事件の被告等のほとんどみんなを見た。ちょうど僕の室は湯へ行く入口のすぐそばで、その入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前へ控えていた。で、すき[#「すき」に傍点]さえあれば窓からその廊下を注意していた。みんな深いあみ笠をかぶっているのだが、知っているものは風恰好でも知れるし、知らないものでもその警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。
 ある日幸徳の通るのを見た。
「おい秋水! 秋水!」
 と二、三度声をかけて見たが、そう大きな声を出す訳にも行かず(何という馬鹿な遠慮をしたものだろうと今では後悔している)、それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行ってしまった。
 とうとう満期の日が来た。意外なのを喜ぶ看守等に送られて、東京監獄の門を出た。そとでは六、七人の仲間が待っていた。みんな手を握り合った。
 出獄して唖になる[#「出獄して唖になる」はゴシック体]
 僕は出た日一日は盛んに獄中のことなどのお饒舌をしたが、翌日からまるで唖のようになってほとんど口がきけない。二年余りの間ほとんど無言の行をしたせいか、出獄して不意に生活の変った刺激のせいか、とにかくもとからの吃りが急にひどくなって、吃りとも言えないほどひどい吃りになった。
 で、その後まる一カ月くらいはほとんど筆談で通した。うちにいるんでも、そとへ出掛けるんでも、ノートと鉛筆を離したことがない。
「耳は聞えるんですか。」
 とよく聞かれたが、勿論耳には何の障りもない。それでも知らない人は、僕がノートに何か書いて突き出すので、向うでも同じようにそのノートに返事を書いて寄越したりした。
 これは僕ばかりではない。その後不敬事件で一年ばかりはいった仲間の一人も、やはり吃りであったが、出た翌日からほとんど唖になってしまった。そしてやはり僕と同じように、一カ月ばかりの間筆談で暮していた。
 牢ばいりは止められない[#「牢ばいりは止められない」はゴシック体]
 また少々さもしい話になるが、出る少し前には、出たら何を食おう、かにを食おうの計画で夢中になる。しかし出て見ると、ほとんど何を食っても極まりなくうまい。
 まずあの白い飯だ。茶碗を取り上げると、その白い色が後光のように眼をさす。口に入れる。歯が、ちょうど羽布団の上へでも横になった時のように、気持よく柔らかいものの中にうまると同時に、強烈な甘い汁が舌のさきへほとばしるように注ぐ。この白い飯だけでたくさんだ、ほかにはもう何にも要らない。
「あれを思い出しちゃ、とても牢ばいりはやめられないな。」
 前科者同士がよく出獄当時の思い出話をしながら、こう言っては笑う。実際日本飯の本当の味なぞは、前科者ででもなければとうてい味わえない。

底本:「大杉栄全集第十三巻」現代思潮社
   1965(昭和40)年1月31日発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。

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