「遺言」:立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集

« 「日本脱出記」 | 立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集トップページ | 「ことばのうみのおくがき」 »

「遺言」

立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した文芸作品と、著作権者が「タダで読んでもらってかまわない」と判断したものを掲載しています。本・文庫・新書・単行本・小説・エッセイ・未出版物・既出版物など。


---(作品ここから)----------------------

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ふら/\
-------------------------------------------------------

 四五年前の二月頃だった。或日、突然、明治大学の学生から電話がかかつて来て、今大学の講堂で学芸部の演説会をやってゐるから、直ぐやつて来て何にか話してくれと云ふ。
 其の演説会のある事はかねてHから聞いてゐた。法政経済専門の学者の意見は聞きあきてもゐるし、それにとかく国家とか政治とか法律とかの何等かの権威に囚はれた説ばかりで面白くもないから、こんどは全く方針を変へて、文芸方面の新思想家を招きたいと云ふ話から、其の人選の相談にもちよつと与つた。そして弁士の一人として生田長江君を紹介して置いた。しかし僕自身が其の会に招かれようとは夢にも思はなかつた。僕などがさう云ふ会によばれるのは、絶対的にと云つてもいい程に、先づない事であつた。現に此の十幾年ばかりの間に、幸徳が一度早稲田大学で講演したのと、堺が一度慶應義塾大学で講演したのと、二度だけしかない。尤も僕も一度、二三年前に早稲田の何んとか会から呼ばれかかつた事はあるが、何にかの都合で中止になつて了つた。滅多にはない機会だ。是非出て見たい。しかし呼ぶにしても余りに突然な呼びかただ。それに、二週間ばかり前から疑似赤痢とも云ふやうな病気にかかつて、漸く一二日前から普通の食事を許されて、まだ寝床に横はつてゐた。電話をかけに二階から下へ行くのでさへ、からだがふら/\する。とても明治大学まで出掛けて行つて演説なぞの出来よう筈がない。で、其の訳を云つて、残念ながら断つた。
『しかし、同委員会で是非先生にもと云ふ事にきまって、私が其のお使者に立つたやうな次第なんですから……ほんのちよつとお顔を出して戴くだけでもいいです……ぢや、誠に恐れ入りますが、どうぞ直ぐお出でを願ひます。』
 と云つて電話はきれた。
 向うでも顔だけ見せればいいと云ふんだ。こつちでも元気のいい学生達の顔を見るだけでもいい。とにかくいい機会だから行つて見よう。僕は即座にさう決心した。そして相憎く財布が空だつたので、菊坂の下宿からひよろ/\歩いて駿河台まで行つた。
 講堂にはいつて見ると一ぱいの聴衆だ。座席が足りないでうしろの方に大勢突つ立つてゐる。そして其の余りが廊下にまでも溢れてゐる。千人余りはゐさうだ。講檀では生田君が例の気取つた身振り口調で、生田君独特の社会問題の話をしてゐる。僕は講檀の横の弁士席に、馬場狐蝶君のそばに座を占めた。
 生田君は先日来の、社会主義候補者たる堺の選挙運動の応援から、大ぶ社会問題に油が乗つてゐた。ふだんの雄弁よりも、一層の雄弁をふるつてゐた。場内には若い生気が充ち満ちてゐる。僕は直ぐに此のアトモスフエアに同化されて了つた。途中で一二度引つ返さうかとまで思つた疲れたからだをも忘れて、何にか気焔を吐いて見たい気持になつた。そこへHがやつて来た。
『演題は何んとして置きませう。今あそこへ張りつけようと思ふんですが。』
 Hは小声で斯う云ひながら、講壇のうしろの貼紙を指さした。僕の名の上には演題未定としてある。
『あの儘でいいぢやないか。実際まだ未定なんだから。』
『ええ、しかしそれでも困りますから、何にか題を……』
『こつちも困るよ、さう早急ぢや……』
 と僕はちよつと考へたが、勿論さう急に題が出来るものでもない。何にを話さうかすらまだ決まつちやゐないのだ。しかしHが笑ひながら黙つて僕の返事を待つてゐるのを見ると、何んとか云はなくちやならん。
『ではね、何にを話すか知れんが、とにかく座談とでもして置いてくれ給へ。』
 僕は仕方なしに嘗つて自分の雑誌で或る雑録につけた題を思ひ出して云つた。そしてHが行つて了つたあとで、こんな事を考へてゐた。先づ病気の云ひ訳をして、演壇に椅子を持つて来て貰つて、そこへ腰かけながら何にか喋舌つて見よう。
 さう決めて僕はそばにゐた馬場君の方を見た。馬場君も生田君と一緒に堺の応援に加はつてゐた。僕は二人ともよく思ひ切つて堺の選挙演説なぞに出たものだと思つてゐた。そして今、恐らくは人並みはづれた喫烟からだらうと思はれる馬場君の妙にくすぶつた、其の生活や年齢から見ても少しやつれ過ぎた顔を見ながら、ふといつか馬場君が話した其の亡兄の遺言と云ふのを思ひ出した。
『私への直接の遺言ではないんですがね。とにかく兄貴が或る人を介して私に伝へた、まあ遺言とも云ふべきものが、たつた一つあるんです。しかも、それが大ぶ変つた遺言だから面白いんです。日本のやうな国では、何にか少し人間らしい事をしようと思へば、どうしても牢にはいらなくちやならね。だからお前も其のつもりでうんと勉強をしろ。と云ふんですよ。ところが、どうも、此の遺言はなか/\果せさうもないんで……』
馬場君が笑ひながら話した此の言葉が今ふいと僕の頭に浮んだ。
『さうだ。此の事を話ししよう。』
 僕は思ひがけないいい話の材料を捉へたので、話の順序の腹案をしに中庭へぶらつきに出た。

 斯うして僕がそとへ出てゐる間に、生田君の話も済み、有島生馬君の誰れだつたかの西洋の画家の話も済み、馬場君の近代社会文芸に就いての話も済んだ。そしてあと一人で、いよ/\最後の僕の番になつた。
 其の間に僕はちよつと委員室にはいつてお茶を飲んで休んでゐた。すると、一人の委員があはただしく室の中へ駆けこんで来た。
『おい、また警察から電話だよ。今日の演説会の責任者に出てくれとさ。』
『また、さつきの事なんだらう。うるさい奴だな。で、君は何んと云つたんだ。』
『うん、大杉先生を呼んだのは誰れだの、先生は演説をするかの、演題は何んだのと、いろんな事を聞きやがるんだ。僕は面倒臭いから何んにも知らんて云つて来たんだがね。とにかく待つてるんだから、誰れか出てうまくやつてくれよ。』
『本当にうるさい奴だな。ぢや、二三人で行つて、皆んなで電話口でわい/\云つて、それでもまだ何にか面倒な事を云ふやうだつたら、構ふ事はねえ、直ぐ電話を切つちやおうぢやないか。』
『さうだ、それがいい、それがいい。』
 若い三四人の学生がドタバタと電話室の方へ駆けて行つた。そして暫くすると、皆んなで大きな声でアハハアハハと笑ひこけながら帰つて来た。
『とうたう切つちやつたんですよ。奴等は不意打を食つて大あはてにあはててゐるんですがね、なあに構ふもんですか。』一緒に行つたHが、また腹をかかへながら、笑つて云つた。そして、
『しかし、とにかく邪魔のはいらんうちに早くやつちやおうぢやないか。』
 と皆んなに云ひながら、
『先生もどうぞ上へ。』
 と云つて、皆んなで又講堂の方へ駆け出した。僕も其のあとへ随いて行つた。講壇では学校の講師の何んとか云ふ人が何にか話してゐた。委員の一人は何にか紙片に書いて講壇の上へ持つて行つた。其の講師はそれを見ると、急に話をいい加減に端折つて講壇から下りた。そしてHが聴衆に僕を紹介した。
 盛んな拍手が起つた。僕はもう、さつき考へてゐたやうな、椅子に腰かけて話さうなぞと云ふ呑気な心持ではゐられなくなつた。そしてとうたう、苦しいのを我まんしいしい、一時間余り喋舌り続けた。
 僕が何にを喋舌つたかは、今はもう詳しくも覚えてゐないし、又ここでそれを発表する自由を持つてゐさうもない。
 僕は演壇から下りた。委員のHは閉会を告げた。すると、いつの間にかはいり込んでゐた刑事共が、委員等をつかまへて、僕の演説の筆記を渡せと強請んでゐる。僕は直ぐに、速記者の筆記を奪ひ取るやうにして取つて、ストオヴの中へ入れて了つた。そして呆気にとられてゐる刑事共をあとに残して帰つた。
 あとで聞くと、警察では其の手ぬかりを掩ふ為めにいい加減な報告をしたので、其の筋でも従つて学校でも大した問題にならずに、ただ危険人物の僕を呼んだと云ふかどで委員が辞職しただけで事は済んだ。

底本:「日本の名随筆 別巻17・遺言」作品社
   1992(平成4)年7月25日第1刷発行

キーワードでサイト内を検索

上村 松園 (8件)
「画学校時代」 「旧作」 「九龍虫」 「砂書きの老人」 「母への追慕」 「眉の記」 「無題抄」 「友人」
上田 敏 (2件)
「海潮音」 「『新訳源氏物語』初版の序」
丘 丘十郎 (5件)
「科学が臍を曲げた話」 「空気男」 「雪魔」 「地球発狂事件」 「ヒルミ夫人の冷蔵鞄」
井上 紅梅 (9件)
「阿Q正伝(魯迅)」 「明日(魯迅)」 「狂人日記(魯迅)」 「薬(魯迅)」 「孔乙己(魯迅)」 「幸福な家庭(魯迅)」 「故郷(魯迅)」 「端午節(魯迅)」 「村芝居(魯迅)」
今井 邦子 (1件)
「水野仙子さんの思ひ出」
伊丹 万作 (1件)
「顔の美について」
伊東 静雄 (2件)
「詩集夏花」 「わがひとに与ふる哀歌」
伊藤 左千夫 (7件)
「水害雑録」 「水害雑録」 「奈々子」 「野菊の墓」 「浜菊」 「姪子」 「守の家」
伊藤 野枝 (6件)
「ある男の堕落」 「出奔」 「 成長が生んだ私の恋愛破綻 」 「転機」 「「別居」について」 「わがまま」
内村 鑑三 (9件)
「寡婦の除夜」 「寒中の木の芽」 「後世への最大遺物」 「時事雑評二三」 「聖書の読方」 「楽しき生涯」 「デンマルク国の話」 「ネルソン伝に序す」 「問答二三」
内田 魯庵 (9件)
「為文学者経」 「温情の裕かな夏目さん」 「灰燼十万巻(丸善炎上の記)」 「家庭の読書室」 「駆逐されんとする文人」 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」 「人相見」 「貧書生」 「文明国には必ず智識ある高等遊民あり」
大手拓次 (1件)
「蛇の花嫁」
大杉 栄 (11件)
「鎖工場」 「獄中記」 「獄中消息」 「生の拡充」 「征服の事実」 「続獄中記」 「男女関係について」 「奴隷根性論」 「日本脱出記」 「遺言」 「藍色の蟇」
大槻 文彦 (1件)
「ことばのうみのおくがき」
大町 桂月 (1件)
「月譜」
大阪 圭吉 (6件)
「カンカン虫殺人事件」 「香水紳士」 「デパートの絞刑吏」 「灯台鬼」 「花束の虫」 「幽霊妻」
尾形 亀之助 (2件)
「雨になる朝」 「色ガラスの街」
岡本 かの子 (69件)
「愛」 「愛よ愛」 「秋雨の追憶」 「秋の七草に添へて」 「秋の夜がたり」 「汗」 「或る男の恋文書式」 「ある男の死」 「異国食餌抄」 「異性に対する感覚を洗練せよ」 「一平氏に」 「上田秋成の晩年」 「英国メーデーの記」 「岡本一平論」 「雛妓」 「良人教育十四種」 「男心とはかうしたもの」 「朧」 「愚なる(?!)母の散文詩」 「過去世」 「風邪と裾―何人か良案はないか?―」 「 家庭愛増進術 」 「かの女の朝」 「家霊」 「川」 「河明かり」 「狂童女の恋」 「金魚撩乱」 「現代若き女性気質集」 「蝙蝠」 「五月の朝の花」 「小町の芍薬」 「桜」 「山茶花」 「時代色」 「慈悲」 「小学生のとき与へられた教訓」 「初夏に座す」 「食魔」 「処女時代の追憶」 「女性崇拝」 「女性と庭」 「女性の不平とよろこび」 「新時代女性問答」 「新茶」 「鮨」 「雑煮」 「ダミア」 「縮緬のこころ」 「蔦の門」 「鶴は病みき」 「東海道五十三次」 「夏の夜の夢」 「売春婦リゼット」 「花は勁し」 「巴里祭」 「巴里の秋」 「巴里のむす子へ」 「病房にたわむ花」 「富士」 「母子慕情」 「みちのく」 「桃のある風景」 「雪」 「鯉魚」 「恋愛といふもの」 「老妓抄」 「老主の一時期」 「私の書に就ての追憶」
岡本 一平 (1件)
「非凡人と凡人の遺書」
岩波 茂雄 (1件)
「読書子に寄す」
岩野 泡鳴 (5件)
「塩原日記」 「神秘的半獣主義」 「戦話」 「耽溺」 「日高十勝の記憶」
巌谷 小波 (2件)
「こがね丸」 「三角と四角」
市島 春城 (1件)
「読書八境」
有島 武郎 (7件)
「An Incident」 「生まれいずる悩み」 「運命と人」 「描かれた花」 「惜みなく愛は奪う」 「溺れかけた兄妹」 「カインの末裔」
板倉 勝宣 (4件)
「五色温泉スキー日記」 「春の上河内へ」 「春の槍から帰って」 「山と雪の日記」
池宮城 積宝 (1件)
「奥間巡査」
池田 菊苗 (1件)
「味の素」発明の動機
池谷 信三郎 (1件)
「橋」
泉 鏡太郎 (2件)
「人魚の祠」 「蛇くひ」
泉 鏡花 (25件)
「愛と婚姻」 「芥川竜之介氏を弔ふ」 「紫陽花」 「遺稿」 「いろ扱ひ」 「歌行燈」 「絵本の春」 「縁結び」 「お花見雜感」 「女客」 「怨霊借用」 「海城発電」 「凱旋祭」 「貝の穴に河童の居る事」 「神楽坂七不思議」 「義血侠血」 「木の子説法」 「城崎を憶ふ」 「草あやめ」 「草迷宮」 「国貞えがく」 「外科室」 「化鳥」 「月令十二態」 「紅玉」
海野 十三 (11件)
「あの世から便りをする話」 「ある宇宙塵の秘密」 「烏啼天駆シリーズ・4 暗号の役割」 「暗号音盤事件」 「生きている腸」 「宇宙女囚第一号」 「宇宙戦隊」 「宇宙尖兵」 「宇宙の迷子」 「 海野十三氏の弁 」 「海野十三敗戦日記」
淡島 寒月 (12件)
「江戸か東京か」 「江戸の玩具」 「活動写真」 「銀座は昔からハイカラな所」 「寺内の奇人団」 「諸国の玩具」 「凧の話」 「土俗玩具の話」 「亡び行く江戸趣味」 「梵雲庵漫録」 「明治十年前後」 「我が宗教観」
生田 春月 (1件)
聖書
石原 莞爾 (2件)
「最終戦争論・戦争史大観 (第一章)」 「最終戦争論・戦争史大観 (第二・三章)」
石川 啄木 (22件)
「足跡」 「石川啄木詩集」 「一握の砂」 「一利己主義者と友人との対話」 「火星の芝居」 「悲しき玩具」 「菊地君」 「雲は天才である」 「氷屋の旗」 「札幌」 「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」 「赤痢」 「性急な思想」 「雪中行 小樽より釧路まで」 「葬列」 「葉書」 「初めて見たる小樽」 「病院の窓」 「漂白」 「天鵞絨」 「二筋の血」 「弓町より」
石橋 忍月 (2件)
「罪過論」 「舞姫」
石田 孫太郎 (1件)
「猫と色の嗜好」
芥川龍之介 (20件)
「秋」 「芥川龍之介歌集」 「アグニの神」 「アグニの神」新字旧仮名 「浅草公園」 「兄貴のような心持」 「あの頃の自分の事」 「あばばばば」 「鴉片」 「或阿呆の一生」 「或敵打の話」 「或旧友へ送る手記」 「或日の大石内蔵助」 「或恋愛小説(恋愛は至上なり)」 「闇中問答」 「一夕話」 「糸女覚え書」 「犬と笛」 「芋粥」 「岩野泡鳴氏」
阿部 徳蔵 (1件)
「美術曲芸しん粉細工」