「愛」:立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集

« 「非凡人と凡人の遺書」 | 立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集トップページ | 「愛よ愛」 »

「愛」

立ち読み図書館|著作権切れ文芸作品集は、作者の死後50年を経て著作権の消滅した文芸作品と、著作権者が「タダで読んでもらってかまわない」と判断したものを掲載しています。本・文庫・新書・単行本・小説・エッセイ・未出版物・既出版物など。


---(作品ここから)----------------------

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逢《あ》ふ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)右|膝《ひざ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「にじむ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さば/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
-------------------------------------------------------

 その人にまた逢《あ》ふまでは、とても重苦しくて気骨《きぼね》の折れる人、もう滅多《めった》には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼《まちか》ねて頂きます。人間の寿命に相応《ふさ》はしい、嫁入り、子育て、老先《おいさき》の段取りなぞ地道に考へてもそれを別に年寄り染みた老け込みやうとは自分でも覚えません。縫針の針孔《めど》に糸はたやすく通ります。畳ざはりが素足の裏にさら/\と気持よく触れます。黄菊《きぎく》などを買つて来て花器に活《い》けます。
 その人にまた逢ふときには、何だか予感といふやうなものがございます。ふと、たゞこれだけの月日、たゞこれだけの自分ではといふやうな不満が覚えられて莫迦々々《ばかばか》しい気持になりかけます。けれども思へばその気持もまた莫迦らしく、かうして互ひ違ひに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちやうど闇の夜空のネオンでせうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せはしないことです。するうち屹度《きっと》その人に逢《あ》ふ機会が出て来るのでございます。
 出がけのときは、やれ/\、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢つて見る眼には思ひの外《ほか》、あつさりして白いものゝ感じの人でございます。たゞそれに濡《ぬ》れ濡れした淡い青味の感じが梨《なし》の花片《はなびら》のやうに色をさしてるのが私にはきつと邪魔になるのでございませう。
 その人は体格のよい身体をしやんと立てゝ椅子《いす》に腰をかけ、右|膝《ひざ》を折り曲げてゐます、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でてゐます。普通には殆《ほとん》ど聞えません。私は母から届けるやう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼《もくれい》して受取つて傍の机の上に置きます。そして手で指図《さしず》して私をちやうどその人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言ひません。細眼にした間から穏かな瞳をしづかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。
 その人の中には確《たしか》に自分も融け込まねばならぬ川が流れてゐる。それをだん/\迫つて感じ出すのです。けれどもその人は模造の革で慥《こしら》へて、その表面にヱナメルを塗り、指で弾《はじ》くとぱか/\と味気ない音のする皮膚で以て急に鎧《よろ》はれ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまはりを探し歩くやうです。苦しく切ない稲妻《いなずま》がもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところ/″\皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒《あわつぶ》が立ちます。戸惑《とまど》つた私の魂はとき/″\その人の唇とか額《ひたい》とかに向つても打ち当つて行くやうです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉《せみ》のやうに私の魂は滑り落ちてはにじむ[#「にじむ」に傍点]やうな声で鳴くやうです。
 私は苦しみに堪へ兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で咏《つぶや》きます。けれどもその人は相変らず身体をしやんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまゝ殆《ほとん》ど音の聞えぬ楽器を奏でてゐます。私の魂は最後に、その人の胸元に向つて牙《きば》を立てます。噛《か》み破ります。
 ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合つたやうです。川はもう見えません。私自身が川になつたのでせうか。何だか私には逞《たく》ましい力が漲《みなぎ》り、野のどこへでも好き放題に流れて行けさうです。明るくて強い匂ひが衝《つ》き上げるやうな野です。もう私の考へには嫁入り苦労も老先《おいさ》きもないのです。
 いま男の誰でもが私に触つたら、ぢりゝと焼け失せて灰になりませう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとの儘《まま》、しづかに楽器を奏でてゐます。ただ今度の私は、大仏の中に入つた見物人のやうに、その人を内側から眺めるだけです。楽器の音が初めて高く聞えます。それは水の瀬々らぎのやうな楽しい音です。私はそこからまた再びもとの自分に戻るのには、また一苦労です。海山の寂しさを越えねばなりません。
 しかし私に取つてかういふ奇蹟《きせき》的な存在の人が、世間では私の母の廉《やす》い仕立ものゝお得意さまであつて、現在、製菓会社の下級社員で、毎日ビスケツトを市中に届けて歩き、月給金○○円の方であるとは、どうにも合点《がてん》がゆきませんです。

底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
   1992(平成4)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。

キーワードでサイト内を検索

上村 松園 (8件)
「画学校時代」 「旧作」 「九龍虫」 「砂書きの老人」 「母への追慕」 「眉の記」 「無題抄」 「友人」
上田 敏 (2件)
「海潮音」 「『新訳源氏物語』初版の序」
丘 丘十郎 (5件)
「科学が臍を曲げた話」 「空気男」 「雪魔」 「地球発狂事件」 「ヒルミ夫人の冷蔵鞄」
井上 紅梅 (9件)
「阿Q正伝(魯迅)」 「明日(魯迅)」 「狂人日記(魯迅)」 「薬(魯迅)」 「孔乙己(魯迅)」 「幸福な家庭(魯迅)」 「故郷(魯迅)」 「端午節(魯迅)」 「村芝居(魯迅)」
今井 邦子 (1件)
「水野仙子さんの思ひ出」
伊丹 万作 (1件)
「顔の美について」
伊東 静雄 (2件)
「詩集夏花」 「わがひとに与ふる哀歌」
伊藤 左千夫 (7件)
「水害雑録」 「水害雑録」 「奈々子」 「野菊の墓」 「浜菊」 「姪子」 「守の家」
伊藤 野枝 (6件)
「ある男の堕落」 「出奔」 「 成長が生んだ私の恋愛破綻 」 「転機」 「「別居」について」 「わがまま」
内村 鑑三 (9件)
「寡婦の除夜」 「寒中の木の芽」 「後世への最大遺物」 「時事雑評二三」 「聖書の読方」 「楽しき生涯」 「デンマルク国の話」 「ネルソン伝に序す」 「問答二三」
内田 魯庵 (9件)
「為文学者経」 「温情の裕かな夏目さん」 「灰燼十万巻(丸善炎上の記)」 「家庭の読書室」 「駆逐されんとする文人」 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」 「人相見」 「貧書生」 「文明国には必ず智識ある高等遊民あり」
大手拓次 (1件)
「蛇の花嫁」
大杉 栄 (11件)
「鎖工場」 「獄中記」 「獄中消息」 「生の拡充」 「征服の事実」 「続獄中記」 「男女関係について」 「奴隷根性論」 「日本脱出記」 「遺言」 「藍色の蟇」
大槻 文彦 (1件)
「ことばのうみのおくがき」
大町 桂月 (1件)
「月譜」
大阪 圭吉 (6件)
「カンカン虫殺人事件」 「香水紳士」 「デパートの絞刑吏」 「灯台鬼」 「花束の虫」 「幽霊妻」
尾形 亀之助 (2件)
「雨になる朝」 「色ガラスの街」
岡本 かの子 (69件)
「愛」 「愛よ愛」 「秋雨の追憶」 「秋の七草に添へて」 「秋の夜がたり」 「汗」 「或る男の恋文書式」 「ある男の死」 「異国食餌抄」 「異性に対する感覚を洗練せよ」 「一平氏に」 「上田秋成の晩年」 「英国メーデーの記」 「岡本一平論」 「雛妓」 「良人教育十四種」 「男心とはかうしたもの」 「朧」 「愚なる(?!)母の散文詩」 「過去世」 「風邪と裾―何人か良案はないか?―」 「 家庭愛増進術 」 「かの女の朝」 「家霊」 「川」 「河明かり」 「狂童女の恋」 「金魚撩乱」 「現代若き女性気質集」 「蝙蝠」 「五月の朝の花」 「小町の芍薬」 「桜」 「山茶花」 「時代色」 「慈悲」 「小学生のとき与へられた教訓」 「初夏に座す」 「食魔」 「処女時代の追憶」 「女性崇拝」 「女性と庭」 「女性の不平とよろこび」 「新時代女性問答」 「新茶」 「鮨」 「雑煮」 「ダミア」 「縮緬のこころ」 「蔦の門」 「鶴は病みき」 「東海道五十三次」 「夏の夜の夢」 「売春婦リゼット」 「花は勁し」 「巴里祭」 「巴里の秋」 「巴里のむす子へ」 「病房にたわむ花」 「富士」 「母子慕情」 「みちのく」 「桃のある風景」 「雪」 「鯉魚」 「恋愛といふもの」 「老妓抄」 「老主の一時期」 「私の書に就ての追憶」
岡本 一平 (1件)
「非凡人と凡人の遺書」
岩波 茂雄 (1件)
「読書子に寄す」
岩野 泡鳴 (5件)
「塩原日記」 「神秘的半獣主義」 「戦話」 「耽溺」 「日高十勝の記憶」
巌谷 小波 (2件)
「こがね丸」 「三角と四角」
市島 春城 (1件)
「読書八境」
有島 武郎 (7件)
「An Incident」 「生まれいずる悩み」 「運命と人」 「描かれた花」 「惜みなく愛は奪う」 「溺れかけた兄妹」 「カインの末裔」
板倉 勝宣 (4件)
「五色温泉スキー日記」 「春の上河内へ」 「春の槍から帰って」 「山と雪の日記」
池宮城 積宝 (1件)
「奥間巡査」
池田 菊苗 (1件)
「味の素」発明の動機
池谷 信三郎 (1件)
「橋」
泉 鏡太郎 (2件)
「人魚の祠」 「蛇くひ」
泉 鏡花 (25件)
「愛と婚姻」 「芥川竜之介氏を弔ふ」 「紫陽花」 「遺稿」 「いろ扱ひ」 「歌行燈」 「絵本の春」 「縁結び」 「お花見雜感」 「女客」 「怨霊借用」 「海城発電」 「凱旋祭」 「貝の穴に河童の居る事」 「神楽坂七不思議」 「義血侠血」 「木の子説法」 「城崎を憶ふ」 「草あやめ」 「草迷宮」 「国貞えがく」 「外科室」 「化鳥」 「月令十二態」 「紅玉」
海野 十三 (11件)
「あの世から便りをする話」 「ある宇宙塵の秘密」 「烏啼天駆シリーズ・4 暗号の役割」 「暗号音盤事件」 「生きている腸」 「宇宙女囚第一号」 「宇宙戦隊」 「宇宙尖兵」 「宇宙の迷子」 「 海野十三氏の弁 」 「海野十三敗戦日記」
淡島 寒月 (12件)
「江戸か東京か」 「江戸の玩具」 「活動写真」 「銀座は昔からハイカラな所」 「寺内の奇人団」 「諸国の玩具」 「凧の話」 「土俗玩具の話」 「亡び行く江戸趣味」 「梵雲庵漫録」 「明治十年前後」 「我が宗教観」
生田 春月 (1件)
聖書
石原 莞爾 (2件)
「最終戦争論・戦争史大観 (第一章)」 「最終戦争論・戦争史大観 (第二・三章)」
石川 啄木 (22件)
「足跡」 「石川啄木詩集」 「一握の砂」 「一利己主義者と友人との対話」 「火星の芝居」 「悲しき玩具」 「菊地君」 「雲は天才である」 「氷屋の旗」 「札幌」 「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」 「赤痢」 「性急な思想」 「雪中行 小樽より釧路まで」 「葬列」 「葉書」 「初めて見たる小樽」 「病院の窓」 「漂白」 「天鵞絨」 「二筋の血」 「弓町より」
石橋 忍月 (2件)
「罪過論」 「舞姫」
石田 孫太郎 (1件)
「猫と色の嗜好」
芥川龍之介 (20件)
「秋」 「芥川龍之介歌集」 「アグニの神」 「アグニの神」新字旧仮名 「浅草公園」 「兄貴のような心持」 「あの頃の自分の事」 「あばばばば」 「鴉片」 「或阿呆の一生」 「或敵打の話」 「或旧友へ送る手記」 「或日の大石内蔵助」 「或恋愛小説(恋愛は至上なり)」 「闇中問答」 「一夕話」 「糸女覚え書」 「犬と笛」 「芋粥」 「岩野泡鳴氏」
阿部 徳蔵 (1件)
「美術曲芸しん粉細工」